捕獲成功

「お前、最近また野生児に戻ったな」 「…んだよ」 大岩の上でぼんやりしているところを急に話しかけられ、銀時は顔をしかめた。 河などもってのほか、川でも言いすぎなくらいの流れ。ただし深い箇所なら大人でも身体がすっかり沈む。さらさらと絶え間ない水音が耳に心地よい場所である。 そこに降ってきたのが高杉の声だった。長い付き合いもあってか人の嫌がるタイミングも的確に捉えてやがる、そう思えてならない。 そんな銀時に追い払う暇を与えまいとするかのように、彼は素早く銀時の隣を陣取り無言で座り込むのだった。 子供らしからぬ、何を考えているやら、辛い思いをしただろうから、等など。松陽に拾われやっと人の子らしい生活を始め暫く経った頃、他所の大人たちが銀時のことを好き勝手に評していたのを子供ながらに感じ取ったものだ。そんな面白くもない記憶を呼び起こされたのは昨夜で、きっかけは同胞の少年たちとのささいな会話だった。 彼らに悪気はないと理解しているつもりだが、どうにも調子が出ないのだった。 「銀さんに何か用?」 「別に」 「…あっそ」 実際どこまで知っているのか、高杉はからかいも慰めもしてこなかった。 実のところ何も知らないのかもしれない。表情を盗み見るも、銀時には何も読み取れなかった。 肌がやたら滑らかそうで触れたくなったが、それはやめた。 暫くして銀時が川面に向けて小石を投げ始めると、彼も似たようなことをした。 「あれ。一緒に入れば?」 次第に沈んでいる自分というものも馬鹿らしくなってきて、銀時は数メートル先を顎で示した。そこでは瀞の淵に立った桂が腰を折り、何事か叫びながら頭を川面に突っ込んでいる。 「煩えからなァ」 「じゃあ後で銀さんが一緒に行ったげるわ。お前一人であんなことやったら流されちゃうでしょ」 「要らねえ。あそこ狭いだろ」 「そうなの?てかヅラあれ、腰とか背中、痛くないのかねえ」 「アイツ昔から身体柔らかかっただろ。…銀時、テメェこそよろけて落ちるだろうなァ」 「いやいや俺なんかより。高杉くん脚曲げて痛え痛え泣いちゃうもんね?」 「…いつ俺がんなこと言った?」 「高杉さ、身体固くてオナれないんだろ。それで猥談入ってこないとか?銀さん練習相手になってあげるけど?」 「!………何言ってんだお前」 にやつくのを堪え、銀時の頬は小さく痙攣した。どうも彼はこういった話題が不得手らしいが、その反応こそこちらの悪ふざけを加速させると何故気付かないのだろう。 「何でそんな頑ななのよ。イイコぶったってさあ。流石に、したことなくはないだろ?いやあ、真面目な話、抜いてはいるよな?たまにはさ」 「チッ。心配して損したぜ」 「あ、やっぱ銀さんのこと心配だったんじゃねえか」 「その様子じゃ何も問題ねえな。…何だ?こっち来んな」 「あはは。そうだわ、そのへん年頃男子にしちゃコイツこそ人間味ないのに」 「あー…、お前」 途端、高杉の表情が呆れたようなものになる。 ああこいつのこういうところが嫌だ。銀時は、急に嫌な気分になった。 「こいつの」について厳密に言うとそれも正しい意味ではないから嫌だ。 何というか、そうだな。銀時は考える。高杉は俺を特異な奴としない…つまり辛い過去を背負ってきて可哀想だとかそういう見方をしない。それでいて突っかかってくる。けれど意外と笑顔もよく見せる。 コイツと居ると腹の奥がむずむずして気持ち悪いような気がして。 「あー。あーあー。ストップストップ、じゃあ、一番、最近で抜いたのいつ?」 「こんな昼間からする話でもないだろ」 「夜聞いたら答えんの?」 「しつこいな。…何だ、やんのかお前」 「はあああ?そっちがその気なら?別に?相手してやってもい」 「コラー!!!」 取っ組み合い開始の直前で場外から飛んできた怒声に驚き、銀時は握った拳を緩める。そんな銀時の胸倉からも、高杉の手が離れていった。 そのまま揃って声のした方を向くと、両手を腰に当てた桂が睨んでいる。濡れた髪を顔や身体に張り付かせたその姿は、妖怪じみて見えた。 「河童みてえ」 「アイツが一番人間じゃねェ」 「まあ、そうね」 「喧嘩はやめなさーい!………お前ら何がおかしい!!」 「…フ」 その姿のまま重ねて怒鳴られるとますます滑稽だった。先に吹き出したのは高杉の方で、銀時もつられて笑った。終いにばんばんと互いの背を叩きあい、腹を抱えて笑い転げた。 「んー、まあ仲直りしたなら許す!つうか、たかすぎー、そこの手拭いくれー!」 「ん?おう…」 笑いすぎて滲んだ涙を指で拭いながら高杉は立ち上がる。あっさり置き去りにされるようで、銀時は少しつまらなく思った。 「なんだ、やっぱ入ってくんの?」 「ん」 尻についた砂埃をぱんぱんと祓う手、逞しくなってきた腕。それらは勿論銀時くんには遠く及ばないがね、と思うのに目を離せず、そのまま脇などを凝視してしまう。 その間に彼は腰帯の隙間にねじ込んであったらしい手拭いを取り出し、それを口に咥えて服を脱ぎだす。 舐めるような銀時の目線を知ってか知らずか、彼はそのままどんどん脱ぎ捨てた。そして終いには素っ裸になった。 「おま……ヘンタイじゃないですか…」 「今どこにも女は居ない。…残念だな」 「え。…びっくりした。今お前のこと見直したわ。確かに残念すぎる」 「な」 「…ねえ、つかお前、下の毛薄くない?前も言ったかもしんないけど」 「見んな。んなこたねェだろ。…馬鹿が」 咥えていた自分の手拭いを腰に当て、桂に渡す方は首に掛けて行くらしい。 無意識のうちに銀時は自分の股間にそっと手を当てていた。 「おっ、高杉も来るかぁー?ここの水メッチャ綺麗だぞおー。陽が当たるから今ならあったかいぞぉー」 「そりゃ良い、…っ!、冷てェ」...

July 14, 2020

山へ

明るいうす緑の、山道を征く。 山奥の寺で物言う生首が保管されているとの噂を得た。 美しい男の顔をしていて、色素の薄い頭髪が伸び続けている、とか。 とんだ眉唾ものと笑い合うも、本音は縋る思いだった。 「見ろ、そこにアオダイショウがぶら下がってないか?」 「てめェが黙ってりゃ何もしねえよ」 「俺たちを見ている」 「はぁ、っハ。放っとけ」 高杉は、相方を背負って山道を歩いていた。 道すがら古傷が痛むと呟くのを聞き、こうした。 やってみると辛かったが、下ろせと喚かれる度にあと半刻は余裕で歩ける気がし、実際そうだった。 下生えに埋もれながらも細い道はまだ先へ続いている。 寧ろ足下をよく見ると、先までと変わり岩石が多い。 中には人力で整形されたらしい長方形の岩も混じっているではないか。 新たな一歩に、また力が入った。 「っぐ」 「きちんと見ろ、ほら、どんぐりの木から」 ひんやりした手が顎下に這い寄り嫌な予感、と背ける間もなく無理矢理件の方角を向かされる。 見ると、蛇などでなく茶色く乾いた蔓だった。 「山葡萄だろ」 「そうか…?」 「てめェに教わった」 「そうだったか?」 「ああ。地面を這っている方はまた別だ、とか。…ふう。な」 「最高だ。良い子、お前は偉い」 「ん?…っぶ」 ぐりぐりと頬を擦り付けられ、高杉の頬も僅かに緩んでしまう。 が、そのまま身体に回された腕の締め付けがぎりぎりときつくなり、元から上がっていた息が更に苦しくなった。 桂は心配だった。 全くこの男は。気遣いされるほど意固地になるのだから。 「ぐ、テメェ…」 「休憩しないか高杉。なあ」 「平気、だ」 「やせ我慢は良くないぞ。息が上がっている。相当だ」 「させるか…っ」 「嫌だ!俺歩けるの!」 「く…ッソ」 「……っ」 「は、はぁっ、ふ、…っつ」 高杉は、いよいよ本気で暴れる背中の荷物にふらつきながらも歩を進めた。 また傾斜がきつくなる。流石に桂も口を噤んだ。 恐らく最後の大勝負と踏み、大股で着実に進む。 急に周囲の木々が拓ける。 次の一歩が平坦な場所に着地すると同時に、高杉は荷物を前方へ放り投げた。 寺の建つ地は、予想よりもう少しだけ切り拓かれていた。 おどろおどろしさまでもなく、老僧がひっそり寝食していそうな風情があった。 「立派だな。ちょうど銀時んちくらい?」 「あァ…」 高杉は、困ったら燃やして良しとしている隊の隠れ家を一つ思い出した。 まず、しんとした堂の周辺を手分けして探索した。 それらしき様子はなかった。 堂内に忍び込みもしたが、結果は然り。 こういう場面もあるので、怪しげな細い金属棒などといった桂の所持品に文句を付けられず、高杉は歯痒い思いをしたりする。 人の出入りはあるようだが、近隣の里から信心深い人々が時折訪れるだけだろう。 互いに、相方も大体同じことを考えているのが容易に想像できた。 ひと通りの罰当たりを済ませてしまった後で、手を合わせる高杉に桂も倣った。 特段落ち込むほどでもない。 取り越し苦労や無駄な努力には、慣れている。 「こんなモンだろうなァ」 「俺は、お前とハイキングできて楽しいぞ」 「…そうだな」 「ヘロヘロではないか。だから俺は何回も休もう休もうと」 「あァ」 「…水の音がする。川でも近いかな?」 「確かに、聞こえる」 「見てくる。そうだったら儲けものだ。飯ごうと米なら持ってきたんだぞ!」 鳥の綺麗な歌声が響いた。 細いが沢があった、魚が採れるかもしれない。 戻ってきた桂は興奮気味に教えてくれた。 「どうせだから、ここで煮炊きして食べてから帰ろう」...

February 4, 2020

ノーチャージ

「ちょっと、どこ行くんスか先輩!」 慌てるまた子、呆れ顔の高杉。そんな仲間の姿もどこ吹く風、万斉は猫の後を追い路地裏の更に奥へと歩き出す。 どちらに付くか迷い、また子は地団駄を踏みたくなった。 最近、どうも調子が悪い。直近で三連続失敗している。 厳密に言うと、一発のヘッドショットで済ませたかった請け負い暗殺にて二発以上使ってしまった。そもそも普段のレベルが違いすぎる、と周囲は苦笑するばかりだったが、彼女のプライドはいたく傷付いていた。 そんな時に限って大将が出掛けると言うから堪らない。 行き先や目的をはっきり教えてくれないのは、それはそれで行き先や目的が絞られてしまうのに。 また子は面白くなかった。 斯くして、万斉も巻き込んでのお出掛けとなった次第である。 「また子も早くおいで。猫天国でござる。ねこてん」 「何言ってんスか先輩…」 「ほら聞こえるでしょ。あっちで集会してると見た」 「ぐぬぬ」 また子は丈の短い着物の裾を握りしめ、しかめっ面で四角い空を見上げる。 「置いてかれるでござる」 「うう…」 にゃあ。コンクリート塀の先から、確かに甲高い声が聞こえてくる。 「また子。あいつ、見ててやってくれねェか。俺の言うことなんざ何も聞きやしねえから」 「…早く帰ってくるッスね?」 「おう」 「ほらあ、また子お、早くう」 「本当に困った人たちッスね!」 名残惜しそうにこちらを何度か振り返りながら、また子は小走りで去って行った。 高杉の位置からは、野良猫と万斉の姿はもう見えなかった。 もちろん本人の趣味もあるだろうが、一言くらい万斉には礼を伝えても良いかもしれない。 「そうさなァ」 独り言を漏らし、高杉はきびすを返した。 「ねえマスター、まだ薄いって」 「ったく。皆んなおんなじ。皆んなこんくらい!」 今夜も賑やかだ。高杉が普段好む街とは大分趣が異なるが、雑多に明るくて、確かに気楽でもある。 人々の間を縫って歩きながら暖簾の先を覗くこと五軒目、やっと当たりだった。 「マスター、あのね、このハイボールは割られすぎてると銀さん思うわけ」 「俺だって忙しいの。勘弁してくれよ銀さん。水飲んだら帰ってもらうからね」 「ありゃ。大将、今夜はもう持ち帰ってあげた方が良いんじゃない」 「うはは、違いねえ!」 「やめてよデンさんゲンさん。この人、女関係よく拗らせるって他所で聞いたよ、俺」 「…そう、銀さんモテモテなので…」 「黙ってりゃあ色男なのになあ」 「ほんとほんと。くるくるパーマなんて気にしなくて良いのに」 「俺の若い頃にそっくりで」 「くるくるぱー、って頭の中の話じゃねえぞ」 「うるっさいよ、お前さんは」 「…俺、酒とパチンコ明日からやめるわ…」 「ほら見ろ」 「つうか女って言うか…クソガキの頃から…が拗れてて…」 「ん?」 「大将、こっち、ちゅうもーん!」 高杉は、顔が火照るのを感じた。 「…どしたの」 警戒、疑念、驚き。肩を叩かれ振り返った顔が、次々に表情を変える様子は大層愉快だった。 「遅えんだよ」 「な。こっちの台詞どぅあ」 「舌回ってねえ。出るぞ」 「だわー!」 「あ、銀さんが生き返った」 「お友達?」 「残念だったねえ大将、来たよー、銀さんお持ち帰るひとー」 「はい、はいはい。おたくは、良いの?」 「なんだ?」 「銀さんもっと酷い日あるからさ。おたくも飲む余裕あるんじゃない?」 「それも、そうだ」 掴んだ襟首から手を離す。追い出されないことに感謝し、高杉も席に着くことにした。 「お。改めて、いらっしゃい。だね」 言われるがままにウーロン茶を啜る銀時に安心したらしく、店主と常連たちは、あとは適度に放ってくれた。 が、間も無く銀時は頬杖を付いて船を漕ぎ出してしまう。 高杉は、彼の横顔と食べ残しを肴に一合だけ飲み、おしまいにすることにした。 「一緒に、払う」 「じゃ、銀さんの分は、申し訳ないけどこんくらい。あんたのは、こんだけ」 「すげえ。安いなァ」 「ウチお通しやんないからね。それに銀さんの分、食べてたでしょ。いや違うよ、無駄になんなくて俺も助かったってこと」...

March 24, 2019

おくすりだせたね

今夜は底冷えする。 開口一番、はやく暖めろと強請るつもりだ。 星がやけに瞬くお陰で空気が冷たいと思いながら、歩いた。 小屋、と呼ぶ度に訂正させられる長屋の一部屋。 家主在宅の目印にほっと一息ついてから引き戸を開けた。が、室内の灯りは奥で大きな蝋燭が一本揺らめくのみ。 妙だ。淀んだ空気が充満している。 目が慣れてくると、壁際に敷かれた布団にヒト一人分の膨らみがあると分かった。 その枕元に大きな影が覆い被さっている。 不穏な光景に目が釘付けになり、金縛りにあったかのように動けなかった。 ゆっくり、影が向きを変える。 暗闇に浮かび上がる二つの紅い光。 ここで起こった出来事について、何通りかの予想が脳内を駆け巡る。どれもが悲劇の類だ。 戸口からじりじり退き抜刀、する直前に紅い光は小さな長方形で隠れた。 光を遮ったのは、見慣れたプラカードだった。 『もちつけ』 『でーじょぶ』 『いらっしゃい』 そこに書かれた内容を理解するまで更に時間を要した。 高杉が突っ立っている間、数秒ごとにプラカードは反転し、文字列はローテーションを続けた。 「…よォ」 敷居を跨ぎからからと引き戸を閉めると、中は暑いくらいだ。 蝋燭と思ったそれは、古びた石油ストーブの炎だった。大切に隠しておいたか拾ったか。おそらく後者だ。 その天板で、ヤカンが小さくかたかた鳴っている。 実はまだ、心音が煩い。 「それ、ヅラか」 『YES』『どうぞこちらへ』 「斬られたのか」 『ちょっと病気中』 「珍しいな」 『大丈夫』『ずいぶん良くなりました』 「……あん、ん、エホン」 「お」 『ボスが!』『シャベッタアアア』 「ちょうど良いところに…ゴホ」 影改めエリザベスの隣に腰を下ろすと、布団に横たわるヒト改め部屋の主は高杉の姿を認め、目だけで薄っすら笑った。 鼻筋は赤く、瞳は潤み、目元に浮かぶ隈が憐れさを誘う。 見惚れる儚さだった。 『ごめんなさいね』『今日は小太郎ちゃん』『遊べないのよォ』 「クク…此奴が寝込むのは初めて見たぜ」 「流石にな、コンコン、ちょっと、参った」 もぞもぞと布団から差し出される手をそっと握ってやると、緩慢な動作で頬に導かれた。 確かに手も頬も熱い。額にかかる細い毛を、反対の手で払ってやった。 「本当に悪いみてえだ」 「ああ高杉。今日もイイ男だ…案ずるな、可愛いお前を残してなど、」 『桂さんんん!』 「おお高杉、でも」 「な、なんだ」 「万が一のことがあったら、俺たちのエリを、頼む。ごほ」 『置いてかないでェェェ』 「ヅラ…?」 「…かすぎ……」 「ヅラ」 「……」 『ドッキリ』『大成功!』 「早い!エリザベス、ちょおーっと、早い!、ッうェエホ!エホ!」 「……フン」 気恥ずかしくなり、熱い頬と手の隙間から自分の手を引き抜いた。 「テメエんとこ、医者いなかったか?」 「カンボウさんには、診てもらったさ」 「風邪か」 「インフレ、ゲホ、ベンザらしい」 『ベンザ』 「ル、エン、ザ?」 プラカードの誤字を指摘してやったのだが、エリザベスはぶんぶんと首を振った。 「そんな俗なウイルスになど俺が負けるものか。ふ、ッゲホ、ン、ウン!」 『顕微鏡で見ると』『トイレの形してる』『ウイルス』 「因みに洋式の方な」 「お前ら…」 ウイルス無敗伝説の幕切れとは、そうまでして認めたくないものか。 馬鹿らしくなってきたが、この手で触れた熱を考えると強くも言えない。...

February 11, 2018

NATTA

薬も飲んで大人しく寝ているのに、熱がなかなか下がらない。 布団と深い仲になって久しいと感じるが、実際はせいぜい二日しか経っていないのであった。 何もしないと時間が経つのが遅い。ぬるぬるぬるぬる、まるで亜空間だ。 当の生き物に失礼だろうが、なめくじの世界に浸かってしまった気分なのだ。 そんな中、高杉は少なからず焦り始めていた。 朦朧とした時間を這っているとは言え、鼻持ちならない他所の糞ガキとの約束を忘れた訳では無い。 それは明後日の夕方に迫っていた。 くそ…。低く唸り、その拍子に喉に走る痛みに小さく咳き込む。この上なく惨めだ。 あの顔を思い出すだけで腹わたが煮えくり返ると言うのに。 今すぐ飛び起きてこの布団を真っ二つに引き裂きたくなる。 その体力があればの話だが。 下から睨めつけてくるんじゃない、とか甘ったれ御曹司、とか。 もう何が一番の論点かというと、正直自信が無かった。それは向こうも同じであろう。 因みにだが、タケさんちのサバ猫に関しては絶対である。俺に撫でられる時が、一等気持ちよさそうなのは譲れない。 兎にも角にも決闘なのだ。 胸の奥がむかむかし出し寝返りを打つ。それだけでも、わずかに出来た隙間から悪寒を感じてますます嫌になる。 布団に潜リ直したその時である。 「聞いたぜえ」 明るい障子の向こうから、聞き慣れた少年の声がした。 「銀時!?っう、けほ」 驚き、立て続けに咳。 「かーわいそ。マジだあ。…だいじょぶ?」 突如現れた銀時は、やれやれと肩をすくめてから障子を閉めた。 小馬鹿にしながらも側にやって来て、ちゃっかり座り込む。 大丈夫じゃない。けれど気の利いた悪態も閃かない。 痛む頭も相まって戸惑っていると、額に湿った手が載せられた。 「聞いたぜ」 「…なぎ、う、ぐし、何を」 懐から差し出された水色の手拭い。 常なら「んな汚えもん使えるか」と押し返したかも知れないが、素直に受け取った。 ふわりと洗剤の柔らかな香り。銀時も、松陽に愛される一介のこども、なのである。 良かった。って何なんだ、俺は。 「悪い。洗って、返す」 目を丸くした銀時は、鼻の下をこすりながら満足げに何度も頷いた。 「良いってことよ。…お前よ、フレンズとデートの約束してんだろ」 何の話だろう。鼻水を拭いながら、ゆっくり起き上がった。 ぴんと来ないのを見兼ねてか、ヒントが与えられる。 「治らなかったら、代わりに一捻りしてきてやっても良いんだぜ?」 分かった。今の今まで考えていた、正にそれじゃないか。 「いやー、あの子の名前なんだっけ」 銀時に人の名前を覚えようとする気があったとは、意外だ。 「堀田、だ」 「ほ、った?穴を?」 「…持った。…持田かな」 「も、ち?そんな美味そうな感じじゃなかったぞ、それは分かる」 「新田かな」 「に、った?違うでしょ」 うーん、うーん、なんだっけ。それらしく腕組みをして考え込む姿に、力ない笑いが漏れる。 「あ、思い出した!堀田くん!」 「だから初めから言ってんだろうが!…ゲェホ、ッゲホ」 「うわ、大丈夫?」 耐えきれずに大きな声が出た。すかさず背を擦ってくれる。 喧嘩もするが、此奴はやっぱり、俺のこっち側だ。 「で、そのホモニくんがさ」 「堀田だって」 嫌いな奴の名前を連呼させないで欲しい。 「堀田持った新田。良くない?」 「…ああ」 「アイツのあだ名けってい!」 後でヅラにも申し送りをしとかなきゃならねえな。 「でね、ホモニくんがね、ブサ面でくっちゃべってんの聞いちゃった」 「悪寒しかしねえ」 「『高杉の奴、明後日は不戦勝だなヒャッハー』ってさ」 「!あんの…野郎!」 ぐぎぎ、と奥歯を噛み締めた。休みなら延期だろうが! 這ってでも、そして這って行く前提なのに間違いなく「倒しに」行くと信じて疑わなかった自分の思考回路には目を瞑ることにする。 「すぐ治したいだろ?」 「ああ。今から気合い入れて寝るぜ、俺あ」 「待て待て待て待て」 「銀時、よくやった。褒美を取らせる。おやすみ」...

September 22, 2017