すず虫

真夜中の踏切、通り過ぎる電車の向こうで静かに笑う大悪党。 いつにも増して様子がおかしかった。 着物のはだけ方なんて、色っぽいとかそれ所じゃない。全身泥だらけでズタボロだ。 こうして距離を置いて見ると、やはり一端の怖い男なんだと何故か納得して、哀しくなった。 辺りを見渡すも、追われている様子は無いが仲間も居ないようだった。 明滅する赤が嫌に似合っていて、電車が過ぎ去るあいだ目は釘付け。 どうも生身の彼が立っているように思えなくて、胸がざわざわした。 「命からがら?」 「お陰様でな」 僅かに勇気が必要だったが、ガタンゴトンという音が聞こえなくなるのを待って話しかけると、普通に返事があった。 待ちきれない想いで、上り始めた遮断棒をくぐった。足早にスクーターを押して彼の待つ向こう側に渡る。 静かになった周囲に、虫たちの歌声がよく響いていた。 「一体、何して来たんだ」 答えなんて聞きたく無いのに勝手に口が。俺の馬鹿。 冷たい肌をしやがって。うなじの少し上に手の平を当てて抱き寄せた。 引かれるまま素直に身体は寄りかかってくる。一丁前にまだ人間のようだ。 「ク…お前で良かったぜ」 ほんとにね。 近寄りすぎた顔を覗くと目の下に薄っすらと隈が出来ていた。 「酷ぇ顔」 首を傾けると、やっとまともに見つめ合えた。 ふ、と小さく弧を描く唇。カサつかせているのは珍しい。あーあ、包帯もグシャグシャだ。 「鬼さんどちらへ逃避行?」 「知るか」 ったく。 少々乱暴にヘルメットを被せてやった。 「…疲れた」 背中からぽつんと聞こえた。強く吹き出した風に流され、呟きは消えてゆく。 「俺なんか、毎度迷惑してんだからね」 互いの主張を言い合うだけ。 「自分のソレと俺の洞爺湖エクスカリバー、落とすなよお」 さっきの電車は今夜最後の一本だったのかも知れない。 線路沿いの道は静まり返っていた。 それにしても酷え格好。 「色男にますます磨きが掛かったようで」 「馬鹿言え、最悪だったんだぜ」 「職質されちゃった?お巡りさんに」 「てめえにゃ言えねえ程に情けねえ話なんだ、ちと出来ねえな」 あー…仕方ねえから聞かないどいてあげようか。 普通に会話できる様子から大丈夫だろうと踏み、当初の予定通り、目的地に向けスクーターを走らせる。 「…釣りでもするのか?小魚だって寝てるぜ」 静かな住宅街の外れにある小川の脇に停車し、エンジンを切る。 今夜は仕事だ。 高杉を促して一緒に草陰にしゃがみこんだ。 「しぃっ。ホラあそこ。あれ、電気付いてんの珍しいな。間違…いや合ってるわ」 「こんなドブから偵察か」 「ちょうど此処が死角なのよ」 渋々ながらも俺に合わせて声を潜めてくれる、流石だぜ相棒。 「どっかの社長さんからの依頼なの。取引先が最近怪しくて、夜逃げしないか見張れってさ」 「ハッ、下らねえ」 ちょっ、静かにしてくれる。 「庶民は庶民でなあ、意外と過激な日々なんだよ」 「楽しい仕事してるじゃねえか」 「まあね。ここだけの話、騙される方も悪いと思うよ。 見せてもらったけどさあ、明らかに怪しいサイトだったもん」 懐から取り出した双眼鏡を覗くも人影は掴めない。 「それ貸せ。…事務所に使ってるのはそのインチキ屋だけじゃねえだろ? どの部屋も夜更かしだな。目当ては何階だ?」 民家に紛れ、のほほんと建つ五階建てビルのちょうど真ん中、三階。 そこに入っていると言う、天人資本の金属部品メーカー事務所を見張れと言うのが依頼だった。 「銀時」 もうすぐ終わるからね。しぃっ。 「…ありゃあ、俺の獲物だ」 へっ。 「鉄屑屋なんてもんじゃねえ、ありゃ武器商だ。 ウチの部下も下手な芝居に負けてな、追加サービスの一つや二つ、近々強請りに行くところだった。 不法入国の面倒も見てる奴らだから、そう簡単にはドロンもできねえ筈だ」 あ、そう。そうですか。へえ、ふうん。 「お前、斬っちゃうの」 いやまあどうでも良いんだけど。...

October 31, 2016

ドットエンボス

お主また隊士を甘やかしたろう。 何の事だ知らねえぞ。 二言目には「良いじゃねえか」と、あれでは困るぞ。 少しお仕置きだ。 あの意味不明な夜から季節は巡り、天人との交渉や国内の要人への根回しに勤しむ内に蟠りなど忘れていた。 変わらず万斉とまた子は仲良くしているようだし働きも良い。 高杉の怯えを他所に、3人の関係性は良好だった。 皆が寝静まる深夜、船内の浴室には2人だけ。 高杉は洗い場の鏡に背を向け、ヒバの風呂いすを跨いで膝立ちである。 腕は、縛り紐で鏡上の照明の根元から吊られている。 紐と言っても身体洗いのナイロン製タオルを長く繋いだもので、万斉の特製だ。 「晋助、拙者が敵だったら?」 「コレ引き千切る。若しくは照明ごとぶっ壊す」 頭上に伸びた腕を揺らして見せる。 ギシギシと照明が嫌な音を立てた。実行するのは簡単そうだ。 顔を顰めて見上げる高杉に大仰に頷いて見せ、にこりと笑いかけてから万斉は釘をさす。 「よろしい。今は、壊すなよ」 それはなかなかの難題だ。 縦に置いた幅だと足の開きが足りないとの事で、高杉の股下の風呂いすは横置きに変更された。 「もう少し腰を上向きにできるか?」 「こうか?」 素直だ。実は遊び好きな可愛い大将なのでござる。 角度を調整すると立ち上がった高杉のペニスは若干下を向き、先端が風呂いすに触れた。 ふむふむ成る程。 「そのまま腰を前後に動かして見ろ」 質の良い木材だから滑らかだろう。平気そうな高杉の表情に物足りなさを感じる。 風呂いすに乗ったペニスをそっと持ち上げ、その隙間に準備してきた薄い布を敷いてみた。 「何だこれ」 眉間にしわを寄せて厳しい顔。分かっている癖に。 「可愛いまた子のおパンティを拝借してきたからに」 「お前は!本当に何考えてるんだ!」 額に青筋が浮かんで、おお怖い。 「大丈夫、生地がザラザラして乙女の柔肌には宜しくないとか。 依ってもう要らないそうでござる。汚しても怒られないぞ」 チッ。 「ダメだ、止め止め!」 んな真似できるか。アレは大切な俺の、さて何だろう。幹部、はこいつも同じだが。どうにも後ろめたい。 膝立ちからさっさと立ち上がる気配を見せる高杉に万斉は焦った。 「まあまあ。また子は拙者の可愛い恋人、晋助は拙者の一生の主人。 然るにこれは拙者も自ら楽しむ奉仕であるからして。 ほら、可愛がってやるからご機嫌直して欲しいでござる。 実を言うと、モゴモゴ、拙者が晋助に奉仕した話は… また子も喜んで聞いてくれるのであって…」 話しながら握ったペニスを優しく擦り、小さな乳首をきつく吸い上げて獣を宥めた。 「くぅ」 歯を食いしばり天井を見上げて強がる表情に安堵する。 最後の話は聞こえていなかったようだ。それで良かったかもしれない。 己が身のために、要らぬ多弁は避けねば。 シャワーヘッドを取り、湯温を確認する。 舌で乳首から這い上がり、首筋から耳孔を可愛がりながら。 こんな忠臣は他に居らぬと思うがな。 まずはぬるい温度にして、片方の尻肉を斜め上に持ち上げ、穴に当てる。 「オイ。処理はして来たぞ」 「だろうな。良い子でござる。まあ、風邪を引くといけないので」 そのまま背側からシャワーヘッドを股下に差し込み、少しずつ前へ移動させていく。 伏せられた長い睫毛を観察しながら。 と、ここか。1度強く瞼が閉じられたのを見過ごす訳にはいかない。 シャワーの湯量を強くすると首が更に垂れ、獣は熱い息を吐いた。 思わず開かない方の目尻に唇を寄せ、そこから瞼に舌を這わせる。 吊られた手の先がぴくりと震え、軽く握られた。 厭らしい身体をしおって。 シャワーヘッドを短く握り直し、小刻みに前後に揺らす。 今度は健在の方の目元を愛でる。眉下の窪みをなぞると眉間に皺が寄って愛らしい。 ますます虐めたくなってしまうではないか。 腕はどうか?吊られたまま程良い力加減を保つ辛さは想像以上だろうが、流石デキる男である。 二の腕を震わせ、それでもまだ器物損害は起こさない努力が伺えた。 肌が冷えたろうか、どれ。 背中にまんべんなく湯を当て温めてから、シャワーヘッドを操る手を腰に戻した。 少しだけ温度を上げ、湯量をもう一段階強くした。 「アッ!」...

August 21, 2016

暑さ寒さも

昔の様に上手くいくと思ったら大間違いだ。 今夜は乗ってやる。俺がお前に、乗るんだ。 意気込んで隠れ家にやって来たのに桂は一向に帰って来ない。 風呂を使っても、一服どころか何回燻らせても、果ては床に就いても。 終いに待ちくたびれ、本を手にしたまま夢の中に沈んでいた。 月が空高く登る夜半、家主はやっと戻った。 戸が開く気配と同時に枕元の火が消えた。 しゅるり、とさ、と衣擦れの音が浅い夢に響いてくる。けれども体はとろりと眠りに浸かったままで動けなかった。 目を開けた、つもりだったが見えた物がどこまで現実か、どうも自信がない。 暗い部屋に差し込む月明かりが、不思議と隅々まで満ち足りていた。 見慣れた長髪を揺らし、桂の影そのものも左右に揺れる。夜風に吹かれる陽気な柳みたいだ。 常の役割とは逆で、飲んできたのか珍しく口許が嬉しそうだ。 か細い声で何か歌を口ずさんでいる。 懐かしい歌だ。こんなに優しい声をしているのに普段は馬鹿ばかりで勿体無い。 もっと聞いていたいのに、次第に歌声は小さく暗闇に消えていく。せめて何の歌だったか確かめたいが、どうにも思い出せなかった。それも仕方ないのだ、殆ど夢の中なのだから。 覚めたら桂に聞こう。 そうして遅えじゃねえかと甘えて抗議して、胸や指に鼻先を擦り付けて、それから乗れば良い。 踊るように枕元に寄って来ると、陽気な酔い柳は膝をついた。 相手にするのを億劫にも思ったが、相変わらず楽しげな口許につられ思わず笑んだ。 珍しいな、声を掛けて白い頬を触りたかったが不思議と腕は全く動かない。 反して相手の手こそがこちらの目元に優しく置かれた。 瞼にかかる重みに、また意識が闇に沈む気がした。一度浮かされたその手は前髪越しに額をゆっくり撫で、また瞼をそっと押さえる。 着物の袖から白檀が強く香った。 帰って来てから桂が小窓をもう1つ開けたのだろうか、吹き入れる夜風が涼しい。 暑さ寒さも彼岸まで。 松陽先生の言葉を真似ては、毎年強い日差しに文句を垂れる自分を宥めてくれたことを思い出す。 そう言えば8月ももう半ばだ…。 深く息を吐くと、更にひっそりと桂の手に力が込められた。 その先は、もう闇だった。先程の月明かりが白昼の光だったかと思う程に、真っ暗だった。 いよいよ眠りに落ちようかという時、また小さな衣擦れを聞いた。 かさかさ、しゅる、さら。耳許に様々な音が流れ込んできた。一度に沢山の無機物が擦れ合うようで、気が遠くなる。 みんなを、頼みますよ。 はっとして飛び起きた。 酷い寝汗で、敷布団にも湿気が篭もっている。 長い髪は、確かに黒かったか。 置かれた手は、時に睦み合う手と同じだったか。 歌う唇は、ふざけたり訓示を垂れたり己を愛したりと忙しない、いつものそれであったか。 師の亡骸を葬ったのも、こんな夜ではなかったか。 あの日の暗い竹林の、ざあ、という騒めきが耳に蘇った。 胸の音がうるさい。枕元の火は眠りに落ちる前にどうにか自分で消したではないか。 布団の上に上体だけ起こし、流れるままに涙を落とした。 暫くのあいだ浅い息を吐いていると、今度こそ待ち侘びた家主が戻ったのだった。 「無用心がっ、過ぎるじゃない、んもう!」 勢い良く後ろ手で戸を閉めながら、母親のように顔を顰めていた。 濃い化粧で元来の美しさを下手に隠し、女物の着物を完全に着こなしている。 戸は、確かに内鍵を掛けたのに。 やれまた無断で上がり込みおって、だの来るなら俺のコンディションを考えて日を選べだの、ぶつくさ言いながら部屋に入ってくる姿が、急激に愛おしく感じた。 今度は体がきちんと動く。立ち上がり、髪飾りを外す途中の桂を横から抱き締めた。 「急に何だと言うんだ。寂しかったのか」 無言で首に頬を摺り寄せる。夜の街の匂い。 「俺は疲れたぞ。可愛い何処ぞの獣が背中を流してくれれば元気が出るかも知れんが」 戸惑いながらも桂は背中を撫でてくれた。 「…俺が上な」 背中の手は素早く頭上に移動し、軽い拳骨に変わった。 背中を流せば頑張ると聞いたが、どちらの役目でかについては、桂の口から出ていない。 望みを捨てずに、至って前向きに一緒に入浴した後に並んで布団に横になった。 「なぁ、先生の墓参り行こうぜ」 「お前にしては良い事を言う。行こうか。 そろそろ銀時を誘えば良かろうに」 それが出来れば苦労はしない。 「ヅラぁ、銀時にゃ優しくしてやってくれ」 お前も銀時も、困った時にゃ俺が行くからよ、とは言わない。 「…ようやっと俺の荷が降りる日が来たのか。その内、店に来てみるか?夜の街は好きだろう。 早く仲良くしろ、俺の気苦労も相当なものだぞ」 「フン。電波の世話役を押し付けた、せめてもの償いさ。とにかく、今日は俺が上な」 「これだから嫌いなのだ。 それに。良いか、ヅラじゃない桂だ。 因みにな、お前は今夜も下だからな」

August 15, 2016

RESERVED

程よい実入りがあったので今夜は一杯、一杯だけね。仕事帰り、ちょっと浮かれてかぶき町を歩く。 店先の「お疲れ様セット1000円」の看板に釣られ逡巡していると、聞き慣れた甘くて低い声に呼び掛けられた。 「銀時?」 振り向けば愛しい隻眼の色男が笑っている。 包帯無しで紺の木綿浴衣、首元から白い襟が覗く。 これじゃあ俺だって分からない。見事に紛れるもんだ。 「一緒に、ど?」 「いや、先約がな…」 くいと手でエア猪口を傾けて見せると、あっさり断られてしまった。少なからず、いや正直かなりのショックを受けた。 この街に居るイコール銀さんに会いに来てくれたものとばかり。 ちぇ、良いさ良いさ、それじゃあな。萎む気持ちを悟られないよう、彼に背を向ける。 すると意外にも嬉しい言葉が追ってきた。 「な。俺の用足し、お前も来いよ」 しかし変な会合に連れ出されるんじゃないだろうな。 怖気づいたが好奇心が勝った。短刀くらいは忍ばせているのだろうが、彼の腰にはいつもの獲物が無い。それなら良いかと大人しく付いて行く。 客引きの声とネオンの光を抜け、かぶき町の賑わいから遠ざかるように歩いた。静かな道が続いて次の街との真ん中に差し掛かる頃、小さなうどん屋に着いた。 周囲にはぽつりぽつりと感じのいい飲み屋に明かりが灯っている。 そして漂ってくる美味しそうな出汁の香り。 とんとんとん。リズミカルな包丁の音が響いていた。 通りに面した作業台はガラス張りで、中ではうどんのおやじと呼ぶにはまだ早い男が生地を切っている。 店内から染み出すオレンジの光が柔らかい。良い店じゃねえか。 「よ」 店主だろうか、うどん切りの男に軽く会釈をし、高杉は当たり前のように暖簾をくぐって行った。 え、待ってよ、常連さんかよ。 面食らったが、一応倣って店主(だよな?)に会釈をしてみた。くしゃりとした笑顔が返される。 高杉の後を追って敷居をまたぐと席は立ち食いのカウンターだけのようだ。 我が万事屋の玄関から応接間までの廊下くらいの奥行きだろうか。大半が仕事帰りらしきサラリーマン、学生風の若い男がちらほら、カップルが1組。それで席は殆んど埋まっていた。 「あの店主な、昔の連れ」 さっさと奥の壁際を陣取り、早く来いと嬉しそうに手招きをする高杉の隣に立つ。 テーブルにもたれかかると、いきなり耳を疑う事を得意そうに囁いてきた。 …ハァ? 聞き返そうとすると、うどんを切っていた男(店主で良いんだな?)が人懐こい笑顔で水を持って来た。 「総督まいど。どうも、お世話になってます、坂田さん」 なんだ。連れって…隊の、ね。 「あつひや2つ」 短く高杉が何か注文した。2つと言うことは俺もそれ?つうか今何て言った?聞き慣れないから、すかしたイケメンが使いやがる通な隠語かと思っちゃうよね。 しかしよく聞くと、単に熱い麺を冷たい出汁に入れてくれ、の意味らしい。 「総督。新作の梅おろし、人気ですけど」 店主が親切に紹介してくれるも、興味は無さそうだ。隠しちゃいるが俺には分かる。幾つになっても好き嫌いの多い男だ。 「…夏らしくて良いな。それさ、良い女がいたらサービスしてやれよ、な。俺は普通が良いんだよ。お前の、普通の味が良い」 何言ってんだこいつ。ぼふ、とケツを手の平で叩くと無言で睨まれた。 「隊の、って昔?いま?」 「昔の、だな。故郷が讃岐でよ、店持ってる親戚んとこで修行してたんだと。話聞いて、まず無事だったで嬉しいだろう、それがこっちで店出すって聞いて祝いに来てみりゃ、これが旨くてな」 へえ…。高杉はまず食より酒だし、少し暑くなると更に食が細くなる。 うどん、ねえ。うどんが旨いって言うか「うどんなら食べられる」ってことなんじゃないのお? かつての仲間とは言え嬉しそうに他所の男を褒められるつまらなさも相まって、俺はまだまだ疑いモードだ。 カウンターの中では若い店員がザルで麺の湯切り中である。あれ、俺たちのだと良いな。 何処からかカタカタと小さな金属音がする。何だと思えば、テーブルの隅に伏せられた灰皿の中からだ。 横の高杉も、灰皿を見つめていた。 手を伸ばしてそっと持ち上げると、何と中からころんとカナブンが現れた。 ブドウひと粒くらいはある。店の灯りに照らされて緑色の背中が艶めいていた。 顔を見合わせ、2人でぷっと吹き出した。 と、カナブンは存外静かにテーブルから飛び立ち、見事に暖簾をくぐって出て行った。 途中から見ていたのか、湯切りの店員と目が合う。 前の客の仕業だろうか。 堪え切れず、今度は3人で笑った。 「はい、お待ちい」 またもや素敵な笑顔で現れる店主とうどん。澄んだ琥珀色の出汁がきらりと光る。 それとは別皿で、彼は得意気に小盛りの鶏天を2つの丼ぶりの間に置いてくれた。 流石にこれは期待せざるを得ない。 一段高いカウンターにはセルフサービスのすりおろししょうが、天かす。俺はどちらもさっくりと匙でひとすくいずつ。高杉は何も入れなかった。 2人並んで箸を割り、「いただきます」と手を合わせた。 うどんを数本すくってすする。 これは。 本当に旨い。 澄んだ汁が、って出汁か、一口飲むと舌の奥にきゅんとくる。 隣を見ると、高杉は無言でうどんを啜っている。こんなに勢い良くものを食べる奴だったろうか。とにかく無心で食べている。 すする、咀嚼、汁を飲む。丼ぶりを置く。また汁。 目線は丼ぶりから離れず、良くても時折ぼおっと壁を見つめるのみ。 すする、汁。また汁。鶏天さくり。さく、もぐ、もぐもぐ、もぐ。汁。...

August 10, 2016

抱かれる梅

皆が祭りからの帰路に就く夜の街。人の流れとは逆方向に、高杉と歩く。 花の市やら盆踊りやら、催し物はとっくに終わってしまったようだが出店はまだまだ賑わっている。 「なあんで平日にやるんだろね」 「鬼兵隊のシマだからな」 「はあーん?またまたあ。 …マジで?その辺のかき氷屋とか?焼きそば屋とか?マジで?!」 「な訳ねえだろ。…そりゃ勤め人は来づらいだろうが。どうだろうな。結局これだけ賑わうだろ。謂れとか、何かに忠実なんだろうな」 祭りの匂いは何処から来るのか。 出店の煙、炭、人々の汗、香料。 楽しい思い出もそうではないことも、全て一緒くたになって優しい渋さが出来上がるのかも知れない。 今夜は珍しく、約束を踏まえての逢瀬だ。 夜空の下に提灯と出店の灯りが並ぶ。光同士が滲んでぼやけて、永遠に続く夢の中みたいだ。 祭りそのものが見れなくたって幸せだ。この道をのほほんと2人で歩ける、それで満足だった。 それに、今夜は重大なプライベート任務がある。 皆様方の御好意を振り払って来たのかも知れない。そう思うと優越感ににんまりした。 隊で夕飯は食べてきたと言う。それならと自分だけ食べたいものを順に買ってはどんどん食べた。いま散財せずしていつするってんだ。 高杉はと言うと、酒屋の出店で買った冷酒の小瓶に直接口を付けてちびちびと飲んでは、それだけで嬉しそうにしていた。 俺フランクフルト買うけど。おう、行ってこい。 綿菓子どうよ。さっき林檎飴買ってやっただろう。…あれは後で大事に食うからさ。 かき氷要る?いや、いい。 やはり気になるから幾度か誘ってみたが気のない返事。 それでも、ひとすくいの氷を口元に向けると素直に啜って「あまい」と呟いていた。 道端に座り込みお喋りに興じる少女たち。崩れた浴衣から軽やかな若さが伺える。 「…みっともねえな。着付け、直してやりてえ」 「怖いお兄さんがいますね。着物崩れてるぞ、そこの影で直してあげよう。…って怖いわ」 「ククッ。やめとくぜ」 「あ、そこのちょっと低杉お兄さん。帯が緩んで…ないけど銀さんがホテルに一緒に入ってあげよう」 「うるせえ」 危ないお兄さん2人は歩くうちに夜も残る蒸し暑さに辟易し、結局ご休憩2時間コースを利用した。 かぶき町からそう距離はないのだが、この町はあまり知らない。 一度だけ荷運びの仕事で来たが、肉と寿司どちらに報酬を化けさせるか揉めたりで町並みに目を向ける余裕なんて皆無だった。 こうして訪れてみると、かつての花街の香りを色濃く残していて風情がある。祭りで賑わう通りから狭い路地に踏み込むと、如何にも高杉が好きそうな空気だった。 これはもしやと期待すると案の定。建物自体は古い作りながら、照明等で今風に設え直された所謂和風ラブホテルを見つけた。 一見すると料亭に見えるが、石垣に嵌め込まれた料金表でそれと分かる。さぞやお高いのでしょうと身構えれば、休憩コースならこちらの手持ちでも足りる値段だった。 2人でにやりと顔を見合わせ、垂れ下がるシュロの葉の向こうに覗く木戸を開けた。 部屋はシンプルな和室だった。それらしい設備と言えば、畳の上にフラットなダブルベッド。 それと、ラブホテルにしては随分そっけない気もするが、現代風の広い浴室。 部屋に入るなり、雰囲気作りに一役買っている古い木机で隠れた小窓を開け、満足そうに一服する姿が可愛いと思った。 その背後から窓の隙間を覗くと、街の灯りが白く夜空に滲んでいる。 星は見えないが、雨が降ることもなさそうだ。 「暑かったな」 「ああ、うん。でもさあ昨夜はちょっと冷えたよね。いつもの甚平がちょっと寒くてよお。 朝とかちっと腹痛かったわ」 こちらの言葉に頷きながら高杉は帯を解く。綻ぶ着物の合わせから甘く香った。 「なに、それ。今日の香水?なに?」 「馬鹿でも分かるのか?フン、嬉しいもんだ。 これは梅。の、練り。 なかなか良い品なんだぜ」 「ふうん」 聞いても良く分からん。けれど何となく気になるからたまに聞く。 特にがっつくつもりもなかったが何となくその身体を見つめてしまった。 顔から首、胸元は変わらないように思うが、足の甲に薄っすらと草履形の日焼けが出来ている。 夏だもんな。こいつも普通に人間なんだよな、と変に感心してしまった。 綺麗に切り揃えられた足の爪。少し長い中指の形が好きだ。 と、こちらの目線に気付き、高杉は脱ぎかけた着物を引っ掛けて風呂場へ消えた。 いくら慣れた関係でも堂々とされすぎると萎えるよな、と話したのは誰とだったか。 流石の高杉くんは良く分かってらっしゃる。 水音を聞きながら自分も着物を脱ぐ。すると懐からぽろりと零れ落ちる林檎飴。 忘れてた、さっき出店で高杉が買ってくれたやつ。いつ食べるのが一番良いかなあ、舐めて待とうかなあ。 舐めて…あ。せっかくラブホなんだからぼおっとしてる場合じゃなかった。待って、ちょ、待って待って。 急いでインナーも脱ぎ捨て浴室を開けた。 湯気の立つ広い浴室には、浴室いすに座り泡にまみれる背中があった。 「あ?」 振り向く顔は額が露わ、髪は洗った後だろう。 外での楽しみは何といってもこれだ、一緒に広々と楽しめる風呂。 「洗ってやろうか」 後ろから薄い腹に腕を回し抱き着くと押し退けられた。 「良いから手前の体をまず洗え」 …ちょっと酷いと思う。 シャワーの位置をずらして蛇口を捻り、立ったまま浴びる。...

August 10, 2016