2019年に妄想していたものを整理・拡張し、完結させました。

素敵な御方

「おタバコお吸いですか?」
「あァ。ランチセット、食後にコーヒーを」
「少々お待ちください」

いつも変わらない、店員の仏頂面。
店の女の子の呼び方に倣い、高杉も専ら「チーフ」と認識している。本人にそう呼びかけたことはない。
彼の名前は知らない。幾つも違わないだろうが、歳上と踏んでいる。

事務所から歩いて3分、行きつけの喫茶店。
高杉が毎週ここに通うようになって半年が経つ。
彼は同じことしか言わない。高杉だって、そうだ。
しかし最近思うようになった。覚えて欲しい。

入り口のマガジンラックから経済新聞を掴み取り、窓際の席で煙草を咥える。
ビルの裏口で愛煙仲間と過ごすのも悪くないが、ゆっくり味わうのはずっと良い。

「お待たせいたしました」
運ばれてくる食事、チーフ直々とは光栄なことだ。
「こちらをどうぞ」
白く骨ばった手で仰々しく差し出されるのは紙コースターだった。短く切り揃えられた清潔そうな爪。
そう言えば、この店で高杉は冷たい飲み物を頼んだ事がない。
ランチセット目当てでばかり来るので、付属のホットコーヒーの味しか知らないのだった。
だから、この店の紙コースターは今初めて見たことになる。
「お待ちしております」
そう言う割にニコリともしない彼と目の前のコースターを見比べ、高杉はそれなりに混乱した。
店のロゴなど、何のプリントもない白地の紙コースターだった。
が、裏返して見れば青いボールペンで何か書き込まれているらしい。それは数字の羅列だった。
顔を上げると、チーフと目が合った。彼は微笑んでいた。
その薄い唇が弧を描くところを見るのも、初めてだった。

「私用です」
チーフは一言だけ発し、あとは踵を返して何の躊躇いもなくカウンターへ戻って行く。
括られた珍しい長髪が揺れるのを、高杉は黙って見送った。
彼の姿が厨房に消えたところで、手元を見返してみる。
「随分と…」
古風な手を使いやがる。
ため息をつき、食事に手を付ける。
朝に比べれば弱まったものの、外では春を待つ雨が降り続いていた。
深入りは危険、と感じた。

食後のコーヒーを運んできたのは女の子だった。
熱い液体を啜りながら窓から通りを見下ろす。地下鉄の駅に近い昼過ぎの商店街を歩く人々は、傘を差しながらも皆それぞれに急ぎ向かう先があるらしい。
そのあと高杉が店を出るまで、美しき黒髪の君はこちらに寄り付きもしなかった。
そうと知っているのは勿論、高杉が彼の動きを目で追っていたからに他ならない。
覚えて欲しい。
あわよくば触れたい。更に言うと他の表情も見てみたい。
臆面もなく言ってしまえば、つまり肌を合わせてみたい。

その週の最後、高杉は夜九時過ぎに事務所を出た。
一度ジャケットの胸ポケットに収まった秘密のコースターは、高杉が部屋に帰ると鍵置き場に横たわり、翌朝には迷った末の手に掴み上げられ、またその日の胸ポケットに収まる。
こうして高杉と共に部屋と職場を三往復したコースターは今、青白い街灯に照らされている。

相手への番号通知を考え、公衆電話を探した。
このご時世に電話ボックスなんて。…あるところにはあるものである。
番号をプッシュする前、多少は躊躇った。

「はいィ!亀山商事の坂本でございます!」
胡散臭さに満ち溢れた、明るい男の声。チーフではない。電話口の向こうはやけに騒がしい。
高杉は、無言で受話器を置いた。
思わず出た舌打ちが運良く拾われていない方に賭けたい。

「いつものランチセットでございますか」
翌週、何食わぬ顔で話し掛けてくるのが癪に障った。
しかもこのタイミングで「いつもの」とは恐れ入る。
因みに、のこのこ来る奴には何の非もない。

「海洋水を煮詰め南アルプスのマグマに一億年閉じ込めた後マイナスイオンドライヤーの冷風でヒンヤリさせたピュアなお水でございます」
満面の笑みでコップを置くチーフ。
いつもの窓際に座った高杉は、流石に絶句した。
他のテーブルから戻る途中であろう、これまたいつもの、店の女の子と目が合う。彼女の目からは、あまり好意的でない色が感じられた。
彼女からすれば、高杉も「ウチの変なチーフの、普通に見えるけど多分変な友達」か何かかもしれない。

ちょいちょい、と指先を泳がせて招くと、こちらの思惑を超えた近さまで顔が寄ってくる。
間近で見ても髭の剃り跡が目立たない。まるで少女の肌だ。
高杉は、舌打ちが抑えられなかった。
「チーフ、てめェ俺を何に引きずり込む気だった?」
「掛けてくれて、俺は大変嬉しい」
「な。…っクソが」
何のために公衆電話を探したのだったか。情けない。
「ふふ、大変な失礼をしてしまい申し訳なかったな。今日こそ本物をやろう」
テーブルに新たに置かれたコースターには、前回とは別の番号が黒い文字で書き込まれていた。

「貴様…」
「あァ?」
嫌にねっとりとした猫なで声、肩に這わせられる指先。
「こっちの人間だろう」
高杉は、居心地の悪さに身じろぎした。
「来るたび俺を見ていたな」
此奴は一体、誰だ。
いつも立ち姿が凛としていて、真面目一辺倒で。店の女の子には実は少々煙たがられているチーフ。
違う、俺が狙っていたのは、清廉とした美しい男は…。
そのまま耳に口を寄せ、囁かれる。
「厭らしい目で」
手が伸びてくる。首元からネクタイの結び目へ。
「今度こそ俺に繋がる。目処が立ったら直前でも構わない、良いか、必ず掛けるように」
一枚、コースターの上に長方形の紙切れが重ねられた。

渡された紙切れを、高杉は財布にしまった。
それはチケットだった。
ライブハウスの招待券…の呼び方で合っているのかどうか、高杉にはよく分からなかった。


前売り1500円
※別途ドリンク代
19時START


表記を見るに、出演は5グループ。
そういった世界に詳しくもないが、妙な説得力があった。
昼は無害な喫茶店員に身をやつしておいて、夜な夜な夢追い人か。
ただ美しいものとして見つめていたこれまでに比べると確かに印象は変わるが、興味を失うほどでもないと思った。

ライブハウスの入り口は地下にあった。
想像力を最大限に働かせ思い描いていたのは狭苦しくて汚い小屋だったが、そこはずっと、きちんとした施設だった。
階段を降り切ると、黒塗りの鉄扉。中からそれらしい音が漏れてくる。
ドアノブは、ぎぃ、と耳触りに鳴いた。

「電話しろと言っただろう」
暗闇に目を慣らすため瞬きしていると、どこからか聞き覚えのある声がした。
「…チーフか?」
「はい、じゃあチケットもらいます」
ペンライトが灯った。
それをゆらゆら揺らすチーフが、物凄く狭いカウンターの中に座っていると分かった。
宝くじ売り場を見かける度に息苦しくはないのだろうかと思うが、あれより狭い。

「不法入国みてェ」
「夢の国へようこそ」
「あァ…?アンタ、出るんじゃないのか?」
「出るとも。まあ、その前にこうやってチョットお仕事すると、安く出れるものでな」
「練習は」
「フン、心配には及ばん」
「…じゃあチーフ、今夜は頑張ってください」
「なんだ、緊張しているのか?やはり初めてか。そうかそうか俺は嬉しいぞ。よし、これは奢りだ」
チーフは高杉の手首を掴んだ。そして手の平を天井に向かせ、小さなカードをちょんと置いて寄越した。
そのまま手首を強く引かれ、屈み込まざるを得ない。
高杉の頬にチーフの頬がそっと触れ、すぐ離れた。
「待っていた」
「…そりゃァ」
アルコールが香る。素直な、嬉しそうな声だった。
むず痒さを感じ、高杉はチーフから離れる。
「照れ屋さんだな。…前のが途中だから、静かに入るんだぞ」
先ほど高杉が入って来た扉の反対側を顎で示すチーフ。それに従い、高杉はチーフに軽く手を振ってからドアを押した。

同時に、耳をつんざく音。イメージ通りだった。
薄暗いフロアから一段高いステージで、これは意外だ、真面目な学生風の若い男、…いや少年たちが演奏している。
中央に立っているメガネの少年がギターを弾きながらマイクに向かい、何事か叫ぶ。
観客席は無いらしい。フロアの人間たちは皆立っていて、ゆらゆら蠢いていた。
彼らの合間をすり抜け、高杉はステージが良く見える壁際に落ち着いた。

少年が何を言っているのか、高杉には理解できなかった。
音割れが激しいせいで、歌の上手さも判断できない。
ドラムを叩くのが少女と分かると、高杉は妙に感動してしまった。その彼女も、ドラムセットの横に立たせたマイクに向け何事か叫ぶ。
よくは分からないが、彼らの必死さは感じた。

突然辺りが静かになった。大音量の余韻で、軽い頭痛を感じた。
「オツウチャン二捧げます。ありがとうございました」
歌っていた少年が早口で何事かマイクに吹き込み一礼。彼らはあっさりステージを去った。

フロアの照明が明るくなる。
壁も天井も黒塗りで、重々しい空間に感じた。
「きちんと聞くと意外と良い歌詞なんだぞ」
「う、お」
耳元で響いた声に目を剥く。さっきまでの大音量のせいで、水底から聞こえるようだ。
「チーフの…出番は」
「次だが」
何という余裕。
「準備しろよ」
「そう急かさなくてもそろそろ行くさ。ドリンク券をやっただろう?それ渡してカウンターで貰うんだぞ。アル、ノンアル、アルアル。何でも飲めるアル~!」
立てた親指で示された方向にはバーカウンターがある。
ネオン管で描かれた瓶入りアルコールの商品名が、淡いピンク色に光っていた。
「わかった」
「飲みながらで良いから、俺の番はちゃんと見るように」
にこ、と彼が笑う。
「頑張れよ」
「ああ。俺がいい歌を歌ったら、ご褒美も貰えるんだろうな」
「…?おう」
何が彼の「ご褒美」になるのか皆目検討もつかないが、適当に返事だけはしておいた。
高杉の反応に大仰に頷いたチーフは、さっと背を向け舞台袖に向かった。緊張など一度もしたことのない人間の背中に見えた。

壁に寄り掛かりくし切りレモンが引っ掛けられたビール瓶を傾けていると、また照明が落ちた。
それまで流れていた甘いジャズがフェードアウトする。
周囲は一度暗くなり、ステージに一筋のスポットライトが当たった。

ピンかよ…。高杉は、呆気にとられた。
そこにはスツールに腰掛けたチーフがひとりだけ。アコースティックギターを抱えていた。
「狂乱」
いきなり激しい演奏が始まった。白い手がアコースティックギターを激しくかき鳴らす。
張りのあるテノールボイスが響き渡る。演奏は激しいが、メロディーは物寂しかった。
急に穏やかな音になったと思うと、そこに朗読が被せられる。
「いま暗い海に灯火を、彼らの目に光を取り戻す!今宵こそ、革命の狼煙を上げるのだ!」
ジャカジャン。

誰も拍手をしない。
本日に組み分けされてしまった他の出演者達を、高杉は哀れんだ。
パチ、パチ。
と、左隣から聞こえた一人分。それが遠慮がちにフロア全体に広がる。

「やかましい!」

ホッとして便乗するところだった高杉は、肩の力が抜けた。
再びフロアは水を打ったように静かになる。
吹き出してしまわないよう、高杉は奥歯を噛み締めた。
呆気にとられる観客たちを満足気に見渡し、チーフは次の曲を演奏し始めた。
ポロン、ポーン。
打って変わって静かな曲調である。但しメロディーの物寂しさは変わらない。
何が気に入らないのか、今度のチーフは憮然とした表情でぼそぼそ呟くように歌った。

「それでも…俺は、起きている」
「闇の奥で待ってる、の…さ…」
スポットライトはさっきの若いグループの時と違って、瞬かない。
チーフは、道端の街灯下で歌っているようだった。

「打ち上げとか、行かねえのか」
「若い奴らで楽しくやるから良いのさ。さあ、俺たちはこれで伸び伸びにゃんにゃんできるな?」
黒いギターケースを背負ったチーフは高杉を促し、出演者とは思えない程あっさりとライブハウスを後にした。

作・こたろう

としてお読みいただきたい