ふわふわと

「今夜、飲み行かねえか」
言われて心中舞い上がる。が、液晶画面を操作する姿に嫌な予感。
怖いもの見たさで、桂は手元でSNSアプリを開く。付き合いで登録したものの持て余し気味だが、存外役立つこともある。
『ヅラと飲む』 これに対し光の速さで『拙者も行きたい。どこでござるか?』と忌々しいコメントがぶら下がるのが見え、反射的に画面を閉じた。
桂は大きく肩を落とした。俺は二人で飲みたいのだ。お前と、二人きりで。

高杉との関係は小さな子どもの頃からだ。
高校生活後半はいかにも青春らしく進路選択に悩んだもので、一大決心の末に思いの丈を伝えた。
すると高杉は、逆に桂の進路希望を尋ねてきた。戸惑いつつ答えると「へェ、じゃ俺もそこだな」などと耳を疑う言葉があった。
結果、今がある。
幸せなキャンパスライフと満足すべきだろうが、正直とても物足りない。
堪らず「淡白なのか?、お前は本当に花の大学生か?」などと突付いても、 「お前のジジ臭さは別なのか…?」とうんざり顔を向けられるのみ。
特に何も起きない。ならばこちらから仕掛けるしかあるまいと息巻けど、具体的にどんな行動を起こせば良いのかが分からない。
それで桂は、2期生になった今、いよいよ悶々としていた。
政経研究会で仲間たちと連日「崇高な議論」を展開させる桂とは対象的に、高杉は軽音サークルの活動を楽しんでいる。
あそこはクサ過ぎて敵わん、と桂は思う。グラサン後輩?金髪のオンナノコ後輩?距離、近くないか?毎日居ても立っても居られない。留年だか助教だか知らないが平気で若人に混じるオジサン(ロリコンと気味の悪い噂も聞いた)とか、どう見てもアウトだ。全く。

「小言が増えたな。髪、縛ったらどうだ…汚れるだろう」
「俺がか?俺が誰の何だっ、ヒック、て?んん?」
有難いことに高杉の投稿はそこまで出回らなかった。桂には酒が回った。
俺に尻拭いばかりさせていたあの悪ガキが、すまし顔で、俺の向かいで酒を飲んでいる。
「何を笑ってやがる…」
「ふふっ、可愛いものだ、ふふっガッ!ハゥッ」
水の入ったグラスを掴んで口元に寄せたところ、勢い余って歯にぶつかった。
優しい慰めの言葉は?こちらを一瞥するだけで特に無い。いや、唇が少し動いたかもしれない。周波数が高すぎて人間には聞こえない愛情表現系の鳴き声か?そうかそうか。
「それでなァ」
「ん?」
「銀時の話の続きだが」
「あ、はいはい、そうね。はい」
「それで学長に呼ばれたらしいぜ」
「ハッ!情けないことだ、フフ、アハハハハ!」
これはアルコール入りで何かに乗ったか乗らないかで騒ぎを起こした同期の男の話。
「そりゃ、のれたらよかろうよ、」
ごつ、という鈍い音と共に、桂の視界はテーブルの木目に覆われた。額に衝撃を感じもしたが、痛みはよく分からなかった。
「ヅラ…。フッ、」
「たかすぎよ。お前、機嫌がいいんだ、な」
「…あァ、コレ旨い気がする」
それは俺と二人飲みという正しい判断をしたからに決まっている。
「ききずてならんな」
「起きたか…」
「俺にもちょうだい。んん、不味い!もう一杯!」
「うるせェな」

「ヅラ、帰れるか」
「ああ、カローラを呼ぼ、っ?!」
何気なく見た店の壁掛け時計が指す時刻に、一瞬で目が覚めた。小太郎一生の不覚。再度テーブルに突っ伏すと、首筋に熱いおしぼりが押し付けられた。
「アチッ」
顔を上げる。こちらに伸ばされる手の先に、高杉の苦笑があった。
「か、可愛い方がくれた」
「は?お前が?厨房でチンさせてもらったのか?」
「お前とは趣味が合わねェ、…いや話が通じない。なぁヅラ」
「はいヅラじゃないかつ」
「来るか?」
「ん?」
「送るのは御免だからな」
「お前は俺を誘っている。そうだな?貴様、どこでそんな真似を覚えてきたんだ」
「ハッ。顔色は悪くねェ…」
高杉は、額や目元を拭いてくれた。
「うぶ」もう少し優しく拭いてくれても良いのではないか?
「ふぅ。お前、見た目は気を付けろよ」
桂は耳を疑った。まさか今、照れ屋のお前がこの桂小太郎を褒めたか?いや正直他では良く言われるが。
「なんだ?」
「悪くはねェんだ」
「むむむ」
「俺ァ割と気に入ってる」
「アッ、え、えぅ。えええ?」
言う割に人の顔をかなり適当に拭き終わると、高杉は出された茶をゆっくり飲み干した。
好きだぜ?好き?桂の脳内ではただ一言がぐるぐる回り続ける。
お前に言われてしまったら萎えると思っていた。夢が叶ったら恋は終わると思っていた。
「そんな事、無かった!アハハハー!」
「おい」
誰かさんの様なドジは踏まないが、今夜の俺なら乗れそうだ。待て待てバイクだ何だとそんなショボい物とは訳が違うぞ、「喜べ高杉お前が飲酒運転されるのだ!俺に!ッハッハ、」
「煩え」
「痛っ!あ、貴様、言ったそばから恋人のびぼうをむげにするのか!」
「黙れ。行くぞ」
桂は素直に口を噤み、愛おしい背を追いふらふらと夜道を歩いた。

暗い部屋、タオルケットすら少々暑い。
驚くほどあっさりと眠ってしまった家主を横目に、部屋に着く頃には酒が抜けてしまった桂ははちきれそうな期待を持て余し途方に暮れていた。
「なあ。高杉、流石にどうかと思うぞ」
高杉は部屋に着くなり着の身着のままベッドに倒れ込んだ。揺すって声を掛けると、酷く億劫そうに起き上がりもたもたと着替えた。
桂は、目を皿のようにしてその様子を眺めた。
けれど本当に眺めていただけだった。いざとなると手を出すなど以ての外、着替え終わり再び高杉が布団に潜り込むまでの一部始終を、口を開けて凝視するしかできないのだった。
「ヅラも、寝ろ…」
「は、裸で入るが?」
「あァ…?俺の服、使えば良い」
「照れるな。まあ、なんだ。ありがとう」
「ん…」
「待て、正気か?お前おやすみしちゃうの?」
「……すみ」
「マジかお前」
「…すぅ」
「たかすぎい」
「…」
「くそっ。相わかった。おやすみ」
さっさと押し倒せば良かった。
暗闇の中で口をへの字に曲げるものの、やはり桂には何もできなかった。
先ほど着替えの途中で見えたへそ周りの筋肉が思い出される。思い出され唾液が分泌されるものの、具体的にどのタイミングでどんな顔をして獣になれば良いのか?
穏やかな寝息を立て始めてしまった高杉を横目に、桂は仕方なくそれらしいプラスチックの収納ケースを漁り、伸びたTシャツを拝借した。もちろん匂いは嗅ぐ。普通に洗剤の香りがした。
興奮した。
再度収納ケースをかき混ぜ、薄い短パンも失敬する。その布地のちょうど中央付近に顔を近付け、嗅覚を働かせる手前で、赤面してやめた。
「…ふぅ」
桂は意を決し、いそいそとベッドに潜り込んだ。
人間だってそこそこ群れる生き物であり、俺たちはそれにふさわしい幼馴染であるからして。いざ家主の寝顔をじっくり拝もうと頭をずらした次の瞬間、桂は固まった。
うつ伏せていた頭が僅かに動き、こちらを向くかたちになる。そして腕が持ち上がり、肩に回されてきた。
「どうした…?」
「あ、えっと」
「ヅラ…、元気か」
「うん。あ、オジャマシテマス」
「オジマンシてます…あぁ。な…?」
残念ながら寝惚けているらしい。微笑ましい気持ちになり、桂は肩の緊張を解いた。
「パジャマ、借りたからな」
「あ、そ…」
「おやすみ」
「…み…」

桂は、明け方までなかなか眠れなかった。
ふ、ふふふ…。
観念して夜中に一度起き上がった時も、隣の寝息が乱れる様子はなかった。
暗いワンルームを見渡し、目に留まった黒いデスクセットに向かう。そろり、そろり。後方に寝息あり、異常なし。
「ハッ!?」
そして桂は、その生意気な小机に乗るものに大変な衝撃を受けた。そこには、よく女子が持っているイメージの、可愛い柄の化粧ポーチ…の類、に見える物があった。
これは忘れ物に違いない。そう、例えば、そうだな。宅飲みがあって、この部屋を出た後にまんざらでもない笑顔で他の男に送られて帰っていった、お友達のものに決まっている。
数十分後、彼女は彼氏の部屋で慌てた筈だ。「あたしの大切なポーチ!」そんな彼女を宥める彼氏くん。
「後で高杉くんに聞いてみよう」「でもあれが無いと、明日メイク出来ないの」「気にしなくて良いのに。寧ろすっぴんのが可愛いよ!」
やだあ。えへへうふふ。桂は一人甘酸っぱい気持ちに悶える。
後日、そんなカップルと学校で鉢合わせる高杉。「あ…。お前、ポーチ忘れてっただろう。明日は持ってくる」
そういうところだぞ高杉貴様。
「ごめんね、ありがとう」
そんな彼女の笑顔は、いつにも増して輝いてた。彼氏の愛が自信を与えたのだ。
何かを察した高杉は返すタイミングを失い、そのまま忘れている。
「良い話だな」
「…ん……」
背後から聞こえた寝言にはっとなり、桂は慌てて両手で自分の口を塞いだ。
今頃ポーチの持ち主は、これらの化粧品には飽きてしまったのかもしれない。
ならば、ただのゴミになる前に誰かが有効活用するに関しては、そう非難されることもなかろう。
「うむ」
桂はユニットバスにポーチを持ち込み、鏡の前で「有効活用」に挑戦した。挑戦は、まあまあの成功を収めた。桂は突如として現れた鏡の国の美女に大いに満足し、狭い個室を出た。

そろそろとベッドに戻り、桂は枕元にそっと手をついて家主の顔を覗き込んだ。安らかな夢の中らしい。
カーテンの隙間から電灯の青い光が薄っすら覗いている。それに照らされ眠る恋人(仮)。
綺麗な海の底にでも居る心地だった。
そんな静かな部屋で息を潜め、桂は手にしたスマホを暗闇の中に掲げる。パシャリ。
「ぐ…」
高杉は、背を向け丸まった。
タオルケットをそっと肩まで引き上げ、こちらに向けられた背中に頬を寄せる。
「むり」
「悪かったな」
「ヅラ……」
深くなった寝息に耳を澄ませる内、いつしか桂も寝入っていた。

翌朝目覚めると桂は一人きりで、大の字でベッドに伸びていた。
小賢しいデスクの上には「施錠よろしく。学校でくれ」とのメモ用紙と鍵があった。ポーチは消えていた。

その日学校で会った高杉は、普段どおりだった。
鍵を返しがてら「良い部屋だな。綺麗に片付けている」などと褒めてみるも、鼻で笑う綺麗な横顔を寄越されて終わりだった。
どうだ諸君。俺たちは純愛だろう。
虚空に向け決め顔をしたところでガタンと何かにつまづき、すんでのところで地面に手を付き顔面衝突は回避する。足元にあったプランター、及び綺麗な花も無事で何よりである。
桂は、ズボンを叩いて土埃を落としながら立ち上がった。
「うん、オホン。さてさてどうしたものか。分からん」

「つまり手が出せない、とな?」
「あァ。普通に寝ちまった…」
「少し拙者と練習でもすれば良いのでは?」
「…お前には感心する」
「真面目な話でござる。ほら、…こんな風に肩でも抱き寄せて……」
「おい河上、分かったもう良い、お前は良い奴だ。本当に」
「うふふ」