こっちをむいて
担任教師のアパート部屋に、みかん箱一つ。ざっと見てまだ半分は残っている。
ついスーパーで大人買い、だったらしい。
「冬が終わったら買えなくなるよなあ、って思ったら、つい」
「いくら好きでも一人で一箱はどうかと思うぜ」
「ううん、それが大好きってほどの認識でもなかったんだけど」
「けど全部、一人で食う気だったのか」
「だったの。で、一昨日くらいに無理を悟って。流石に。だから好きなだけ食べてって。つうか今日の必修課題な」
今度こそ拒否されるだろう。もう今日で終わりかもしれない。恐らく今回は。
不似合いな弱気を抱えながらも毎度ついつい訪ねてしまい、結果あっさり上がり込めている。
春休み間近の金曜夜、高杉はまたもや「来ちゃったもんをいきなり帰すのも可哀想だし」だとかで白星を飾った。
心臓に悪い。
「先生さっき食べちゃったんだけど」
「みかん？」
「違う、夕飯」
「あ。俺も食った」
「そう」
彼がほっとした顔をすると、高杉は嬉しい。
小さなこたつで向かい合い、二人でみかんをやっつける。
望んで会いに来るのに、いざ対面すると驚くほど話題が見つからない。それでいて気が付くと笑っている。不思議な時間だった。
そっと目線を上げると、銀八はちまちま白い筋を取り除いていた。
「むむむ」
作業に熱中して口が止まるタイプらしい。吹き出してしまった。
「何よ」
「…旨いな、これ」
「まあなあ、たまに食べるなら旨いよなあ」
「でも銀八、手、全然白いな」
「これでも結構きてるから。ほら見て手のひら、黄色いよ」
思わず頬を緩め、高杉も彼に倣い筋を指先でつついた。
それからは無言で、三つずつ食べた。
皮と筋は、こたつの中央に広げたチラシを下敷きにして積み上げられた。
いつの間にやら指先が冷たい。高杉は手をこたつに突っ込んで擦った。
「食べ過ぎると、身体が冷えるんだと」
「ああ。寒い」
「温泉なんか行くとさ、たまに薬湯？みたいなんで、ネットで浮かんでるけどな」
「温めて食えば良いのか」
「ふっ、食べません。風呂に入れんのは皮だけよ」
「皮。へえ」
二人の目線は自然と同じ方向に集まった。
当たり。
銀八は、心の中でほくそ笑む。きっちり好奇心旺盛な子なのだ。
生徒と共に新しいことに取り組む。なんだかんだ魅力を感じてしまうシーンである。
それに、理化学の教諭は実験が楽しそうだと未だに羨んでいるクチでもある。学校で白衣を着る理由も、言わずもがな。
「文系の先生が何で着てるのとかさあ、細かいこと気にしない。スーツに粉とか付いちゃうでしょうがァ」
等など適当な返しはいくらでも思い付くが、どうしたって「これ？酢酸派手にこぼしちゃったの。もう何年も着たし、買い換えようかしら」には敵わない。
それでも着たいものは着たいし、それらしいチャンスがあれば飛び付くに決まっている。
「坂田の湯、入ってくか！」
「え。んな、悪いぜ」
「遠慮しちゃって。お前だって興味ないこと、ないだろ？」
「まあ、…なァ」
みかん風呂そのものは、高杉少年にしてみれば正直がっかりだった。
香りも大したことはない。銀八のシャンプーの方がやけに匂う気がした。
そりゃ風呂なんだから温かいだろう、と湯に浮かぶ洗濯ネットを突付く。中にはみかんの皮が詰め込まれている。ばらばらと散らす訳にもいかず、銀八が衣装ケースから探し出してきた代物だ。
ただ、小さなユニットバスながら意外に悪くない居心地だった。
坂田の湯、ね。浴槽の内壁に背を預けて座り、開いた脚を限界まで伸ばした後、暫しぼうっとした。
「どう？」
ふいに、浴室のドアがノックされた。
短時間ながら居眠りしてしまっていたらしく、身体が跳ね上がる。
湯音も派手に上がり、ドアの外で笑い声がした。
「高杉、寝たら溺れるよ」
「…ってねえよ」
「あそ。良いもん持ってきたんだけど」
「何？」
慌てて、掬った湯で顔を濯ぐ。濡れた髪は後ろに撫で付けた。何となく。
「開けまあす」
「おう」
銀八は、両手にコップを持ち浴室に忍び込んできた。
中身について高杉が尋ねる前に、彼は片方のコップの中身を湯にぶちまけた。
「な、てめっ、」
それは白い粉で、ぶしゅぶしゅと気泡を出しながら溶けていく。高杉は呆気にとられた。
「おう失敬失敬、血行促進的なあれをだな、どうかな、と」
スウェットの腕をまくり、ざぶりと突っ込んでくるからいよいよ言葉を失う。
身体にぶつかってきそうだ。息を呑む高杉をよそに、湯はぐるぐるかき回された。
「溶け残りあったら、自分で混ぜてね」
「な」
「どう？」
「…いや、なんだこれ」
「まずは、重曹」
「？」
「ほかほかするかね」
「はあ」
「ったく。ここにゃ俺しか居ないんだから。もっと素直になって良いんだぞ。気持ちいいかね」
「…つったってな。おま、銀八、テンション高え」
身を乗り出してくる大人を前に、少年はたじろいだ。
目と眉が近い。普段の教室での様子とは異なる。こんな銀八は珍しいし面白いと思った。
ただ、同時に胸の奥がむず痒く、苛々もした。
「染み渡る。気がする。腰痛が治る」
身体を曲げて肩まで沈み直し、それらしいコメントをしてみた。
横目で様子を窺うと目が合った。なかなかの不満顔である。
「…んだってんだよ」
それ以上の悪態は抑え、高杉は掬った湯で顔を擦った。
「致し方なし。次、応用編に入ります」
「は、」
「ほい投入」
言うが先か、銀八はもう一方のコップを逆さまにした。また粉だ。先のものより粒が大きく、ゆっくり溶けていく。
「混ぜて、混ぜて」
言われるままに、高杉は両手足をばたつかせた。
「銀八、これは」
「しお」
「何だって？」
「普通に、しょっぱい、ソルト」
「…注文の多い店」
「お、偉い。料理店？よく知ってるな」
「お前の授業でやってただろ」
「それ違うよ絶対」
「フン、これは肩こりだな」
「適当だなオイ。はあ、若いから必要ねえもんな。でもさあ、いくらピチピチでも、…おし、次はバター持ってくるか」
「要らねえよ、ははっ」
「ぎゃ。コラ、家主に何を」
ひとしきり笑った後、はたと我に返る。
ばつが悪く、高杉は顎まで湯に沈み直した。
「はあ。…坂田の湯は最高だぜ」
「また適当なことを」
「血行促進が凄えなコレ」
「言ってろ。ま、逆上せない程度にごゆっく、…んん？」
「ん？」
「高杉君のは、でっかいな？」
ぎくり。反射的に高杉の背筋が伸びる。
からかいや驚き、純粋な感心やらを含む声で、瞬時に話の展開が予想できてしまった。
恐る恐る湯船の底を見る。
でっかくなっていた。
「え。そんな怖い顔しなくても。ごめんて、ごめん、先生セクハラだった」
「そんな、ことは」
「はは。まあ、でっかいのは、素晴らしい」
「っ！」
「ええっ！？」
穴があったら入りたい。だが今の高杉には逃げ場がない。
なので体育座りのまま深く項垂れる形で、咄嗟に息を止め湯船に顔を突っ込んだ。
浴室には、銀八の驚く声が響いた。
「たたた高杉」
ぶく、ぶく。自分の吐いた息が気泡になって顔に当たる。
「悪かった。先生デリカシーがなかったな。もう出るから、な？」
ざばあ、といきなり起き上がって驚かすなどは、どうだろう。
「溺れんだろ。ったく、もう。早く顔出しなさい」
ぽつりぽつり話しかけてくれていたが、諦めたらしく銀八は浴室を出て行った。
身体中が酸素を求めている。
戸が閉まる音を聞いて二秒後、高杉は勢いよく顔を上げた。
「ぶはぁ、っは、は…」
ぐらりと視界が歪む。浴槽のへりを掴みたいが、手に力が入らない。
「ぎん、ぱち」
「はいよ」
いた。
「やばい、…」
変に身体が熱い。喉の乾き、軽い吐き気。
すぐにドアが開いた。
「うわっ」
「わるい、水くれ…」
高杉の視界は暗転した。
面食らったものの、銀八は逆上せた教え子の介抱をどうにかやってのけた。
必死で裸の両脇に手を差し入れて引き上げたため、銀八自身も濡れねずみになったのは言うまでもない。結果、途中からはパンツ一丁での作業という間抜けな状況に陥った。
力の抜けた少年の身体はぐにゃぐにゃして扱いづらかったものの、丁寧に水気を拭ってやった。水も、少しずつ飲ませた。
ベッドに寝かせ布団を被せ、やれやれとため息をつく頃、やっと銀八は寒さを思い出した。
洗いたてのスウェットをベランダから「収穫」して室内に戻ってくると、派手なくしゃみが出た。
「ぎんぱち」
「あ、起きた」
「すみません、でした」
ぐったりしていたのが薄く目を開けていた。会話できることに安心したが、まだ顔が赤い。
「じゃないよ、こっちがだわ。先生はしゃぎすぎた。ごめんね、ほんと」
「フン、鍛え直してくらァ」
「何をだよ。…それより、なあ高杉、親父さんに連絡しようか」
「あァ？！」
自分自身の反応に驚いたらしく、高杉は咳き込んだ。
「ちょ、先生びっくり。ん。分かった、俺からは何もしないから。そだ、水飲むか？」
「くれ…」
「ちょっと待っててね。じゃあまあ、遅くなるとか、一言は連絡しとけよ。補導はされてません、とか」
「るせぇ」
「何だって？」
「そうしますので、銀八先生、もっと水ください」
「…はい、はい」
高杉は、何度か水をせがんだ。
三杯目を飲み干したあと、もう少しだけと言い残してベッドに沈み、そのまま眠ってしまった。
途中、渡したスクールバッグからスマートフォンを取り出し何か操作をしていた。それを良い方向に解釈し、銀八に課せられる連絡義務はないものと信じることにする。
少し考え、銀八はベッドの中に抱き枕を潜り込ませた。それを仕切りにして自分もベッドに横になる。
「お前が男子で良かったよねえ」
半開きの唇や首筋なんかに苦笑した後、銀八はずれた布団を引き上げた。
翌朝目覚めると、抱き枕の向こうはもぬけの殻だった。
「ちょっと、なになに」
急に静かになったように感じる室内を見回すと、こたつの上の散らかりようが目立つ。
眼鏡をどこに置いたのだったか。悪戯だ。ぼんやりとしか見えないが、その内容については色合いで大方予想が付いた。
ベッドから起き上がった銀八は、裸足のまま近付く。
明らかに何者かの意図を元に並べられている。
その配列は、やはり箱にあった残り全てのみかんだった。
「やだナニコレ。びー、いー？」
みかんの並びはアルファベット「ｂＥ」二文字に見えた。
文字を象れるほどの数が未だ残っている酸っぱい事実は一旦忘れるとして。また新しい若者文化だろうか。
検索しようか思いあぐね、銀八はもう一度見遣る。ううむ、と首を傾げたところで閃いた。
「さん、と、きゅう。それだ。ほほう」
はい、どういたしまして。
可愛いものだ。皆んな良いところがある。
もちろん逆も然り。
高杉は、登場人物の心情を想像してみましょうとか、現状そういうのに弱い。
人が如何に必死に装っているか、未だ気付かないのだから。
だが幸か不幸か、銀八には既に内示で初めての三学年担任が知らされている。今年は模試の取り扱いが増えることだろう。
なので、どんどん当ててやるつもりだ。
例えばこんな風に。
因みにだけど。この例題の話、実は銀八先生が好きな本です。超おすすめです。
てな訳で考える練習。この男は、それからどうしたと思いますか。
そんなん大切だからね大人になるとホント。らしいよ。
どうしよっかな。
うん、では、重役出勤で今日もふてぶてしい高杉くん、どうぞ。