今夜は底冷えする。
開口一番、はやく暖めろと強請るつもりだ。
星がやけに瞬くお陰で空気が冷たいと思いながら、歩いた。

小屋、と呼ぶ度に訂正させられる長屋の一部屋。
家主在宅の目印にほっと一息ついてから引き戸を開けた。が、室内の灯りは奥で大きな蝋燭が一本揺らめくのみ。
妙だ。淀んだ空気が充満している。

目が慣れてくると、壁際に敷かれた布団にヒト一人分の膨らみがあると分かった。
その枕元に大きな影が覆い被さっている。
不穏な光景に目が釘付けになり、金縛りにあったかのように動けなかった。

ゆっくり、影が向きを変える。
暗闇に浮かび上がる二つの紅い光。
ここで起こった出来事について、何通りかの予想が脳内を駆け巡る。どれもが悲劇の類だ。
戸口からじりじり退き抜刀、する直前に紅い光は小さな長方形で隠れた。
光を遮ったのは、見慣れたプラカードだった。

『もちつけ』
『でーじょぶ』
『いらっしゃい』

そこに書かれた内容を理解するまで更に時間を要した。
高杉が突っ立っている間、数秒ごとにプラカードは反転し、文字列はローテーションを続けた。

「…よォ」
敷居を跨ぎからからと引き戸を閉めると、中は暑いくらいだ。
蝋燭と思ったそれは、古びた石油ストーブの炎だった。大切に隠しておいたか拾ったか。おそらく後者だ。
その天板で、ヤカンが小さくかたかた鳴っている。
実はまだ、心音が煩い。

「それ、ヅラか」
『YES』『どうぞこちらへ』
「斬られたのか」
『ちょっと病気中』
「珍しいな」
『大丈夫』『ずいぶん良くなりました』
「……あん、ん、エホン」
「お」
『ボスが!』『シャベッタアアア』
「ちょうど良いところに…ゴホ」

影改めエリザベスの隣に腰を下ろすと、布団に横たわるヒト改め部屋の主は高杉の姿を認め、目だけで薄っすら笑った。
鼻筋は赤く、瞳は潤み、目元に浮かぶ隈が憐れさを誘う。
見惚れる儚さだった。

『ごめんなさいね』『今日は小太郎ちゃん』『遊べないのよォ』
「クク…此奴が寝込むのは初めて見たぜ」
「流石にな、コンコン、ちょっと、参った」

もぞもぞと布団から差し出される手をそっと握ってやると、緩慢な動作で頬に導かれた。
確かに手も頬も熱い。額にかかる細い毛を、反対の手で払ってやった。

「本当に悪いみてえだ」
「ああ高杉。今日もイイ男だ…案ずるな、可愛いお前を残してなど、」
『桂さんんん!』
「おお高杉、でも」
「な、なんだ」
「万が一のことがあったら、俺たちのエリを、頼む。ごほ」
『置いてかないでェェェ』
「ヅラ…?」

「…かすぎ……」
「ヅラ」
「……」

『ドッキリ』『大成功!』
「早い!エリザベス、ちょおーっと、早い!、ッうェエホ!エホ!」
「……フン」
気恥ずかしくなり、熱い頬と手の隙間から自分の手を引き抜いた。

「テメエんとこ、医者いなかったか?」
「カンボウさんには、診てもらったさ」
「風邪か」
「インフレ、ゲホ、ベンザらしい」
『ベンザ』
「ル、エン、ザ?」
プラカードの誤字を指摘してやったのだが、エリザベスはぶんぶんと首を振った。
「そんな俗なウイルスになど俺が負けるものか。ふ、ッゲホ、ン、ウン!」
『顕微鏡で見ると』『トイレの形してる』『ウイルス』
「因みに洋式の方な」
「お前ら…」

ウイルス無敗伝説の幕切れとは、そうまでして認めたくないものか。
馬鹿らしくなってきたが、この手で触れた熱を考えると強くも言えない。

「俺は、居た方が良いか」
「絶対居て欲しいです、コン、コンコン」
「仕方ねえ」
「構ってやれなくて、すまない」
「いや…」
「せめて、ゆっくり看病していってくれ」
「気にすんな」
『悪いわねえ』『良かったわねえ小太郎ちゃん』
「ゆっくり、やさしく、頼む」
「?」
「ありがとう救世主」
『ありがとう高杉さん』
「あ、ああ。…ん?」

 

こうして、ごく自然な流れで看病役を仰せつかった。
買い物なら俺が(実際に動くのは別の人間だったとしても「買い物なら俺が」)、と腰を上げたらそれは制された。

『歩狩汗がもう無いですね』
「あとは白くまを食べると全快する予感がビンビンする」
『喉に悪いからダメ』
「ザベスう」
『じゃナタデココ』
「それで手を打とう」
『どうでも良いから寝ろ』
「え?」
『では行ってきます』

アンタも付きっきりだっただろうしな。高杉は、そんな気持ちになる自分自身を珍しく思いつつ、感謝の念で大きな背中を見送った。
戻るのは明日でも構わないと伝えると、その場で数ステップ分のスキップをして見せてくれた。

経緯について一応は聞いたが、信憑性は何とも言えない。
桂率いる攘夷党で、感染者が他に二人。
伝道者としては「最近話題のピンクなお店に行ったらしいヨシハラさんが怪しい」らしい。
はじめ喉の痛みと高熱が顕著。三日以上の高熱が続いたら要注意。規定以下の体温になるまでは薬剤摂取を欠かさず絶対安静。
厄介かつ最大の特徴は、発熱。
恒常的なニコチン摂取がある者は罹りにくい。

いい加減にしろ、と口を挟まなかったことについて褒めて欲しい。
二人のお喋りは話半分で聞くよう常々努めてはいるが、大抵上手くいかない。
ふざけた人間の相手なんかは、もう一人の幼馴染が抜群に上手い。実は昔から感心しているのだが、悔しいので本人に伝えたことはない。
今こそ助けてくれ銀時。こういう時、どこで本気か否か見抜けば良いのだ。

 

「コン、コンコン」

狭い部屋に咳が響き、高杉は手にしていた本から顔を上げた。
薬飲んだなら寝ろ。そう言って冷却ジェルシート越しに額を撫でると、そのまま目を閉じてくれた桂だった。
暫く穏やかな寝息が聞こえていたのだが、可哀想に、軽い発作に邪魔されたらしい。
それとなく注視していると、治まるどころかますます酷くなってくるので少々焦る。

「ゴフッ、…っは」
「ヅラ、」

抱き起こそうと手を伸ばしたが思い当たることがあり、すぐ引っ込めた。
ニコチン摂取がある者は、と聞いて普段通りにしていたのが迂闊だった。
慌てて空いた桃缶を煙草盆代わりに灰を落とし、立ち上がって湯呑に水を汲んでくる。
ぜえぜえ言う桂の肩を抱き、落ち着くのを待って湯呑を持たせると、離れた。

「行か、行かないで高杉、ハ、ァ」
「違う、空気変えるだけだ」

窓を開けると、ひんやりした空気が飛び込んでくる。冷たいというだけで妙に清潔だ。
月が大きく見える。隣の部屋から夕餉の香りが流れ込んでくる。
こうして新鮮な空気に当たっていると、不思議と疑念が晴れていくのだった。
ヅラが倒れた。俺はぴんぴんしている。
至極簡単な話だ。することなんて、一つしかあるめえ。

「ッぇ、ごふ…」
「ヅラ!」
振り返ると、身体を起こした桂が今度は湯呑の水に噎せている。
自分の羽織を脱ぎ、肩に掛けてやった。少し肉が落ちた気がする。
その上からゆっくり擦るうち、やっと落ち着いた。

「本当に珍しいな」
つむじの少し下あたりから、前髪に沿って手の甲をゆっくり往復させる。細い髪の毛の、つるつるした感触。
彼が普段してくれる行為をなぞっているだけだが、こういう立場もなかなか悪くない。
「ん?」
「ヅラ…良くなってんだな?」
「なっている。治りかけが肝心だから、丁寧に面倒を見るように」
「るせえ。…必要な薬なんかは、今はもう無えんだな」
「次は、朝に飲む」
「そうか」
「ふむ、うん。ふむ」
「ならもう横に」
「そうだ、お前の出番を思い出したぞ」
「…ん。替えるか?」
自然と明るい声が出た。手のひらを反し、前髪の下のシートをかりかり引っ掻く。
確かに、ぬるいと思っていたところだ。そう言えば。
「ああ。絞ったやつが良い」
「待ってろ」

「いいにほひ」
「そうか?…鼻は利くのか」
懐から取り出した手拭いをさっと熱い湯で洗ってから硬く絞ったものである。
顔周りを拭われる桂は大人しかった。珍しいことこの上ない。
迂闊に手を出すと、まず此奴はおかしなことを言う。若しくは、してくる。だから、普段こんなに高杉から触れることはしないのだ。

「実はな」
「ん」
「数日、風呂に入れなんだ。とても気持ちいい」
「髪の調子は、悪くないみてえだが」
「アブラが良い感じに乗ったみたいでな。ツヤツヤだろう」
聞かなきゃ良かった。
「…身体も少し拭くか」
「いやん。お願いしようかしら、っん、ごほ、ッぇエホ!エホ」
「ヅラ、水」
「っは、ん、うん。はい。…ふう」

「ああ…」
猫みたいだ。ゆるゆると息を吐く病床の男に、そう思った。
日当たりの良い道端で伸びているところにちょっかいを出して、また子と万斉が離れなかった野良の茶トラ。あれを思い出す。
うっかり間抜け面などと呟き、二人から冷たい目を向けられたのだった。
「ごくらく」
「…良かったな」
白い肌を拭いながら、薄い筋肉に見惚れていた。ああ俺はいつもこの胸に。
こっそり顔を上げると、幸い病人は満足気に目を閉じたままだ。
寝間着が少し湿気っていた。後で替えてやる必要がある。

「お世話もできるではないか」
「いつもしてんだろ」
「まさか。この機会によく覚えておけ…ゲェホ、エッホ!」
「黙ってろ病人」
背中まで拭きたかったが、どちらにせよ気休めだと諦める。適当に寝巻きを戻し、布団で蓋。
耳許が熱い気がする。背筋はぞくぞく震えるような。寒気だったら笑えない。
いいや俺には感染らねえ。恒常的に吸ってんだ。
吸ってる…ケムリと……。
フン。顔を背けた先に折よく湯呑があったので、それを掴んで立ち上がった。
「まだだ」
否、立ち上がるつもりだったが帯を引かれて叶わなかった。
振り返る。
心細そうな上目遣いが、狡い。

「寝ろって」
「背中がいちばん、汗かいた」
「…また手拭い洗ってくるから待ってろ」
「すまんがな、それと、洗った寝間着は、そこの引き出しの、一番下」
「ああ」
「それから」
「注文の多い」
「少し吸うくらい、構わん」

照れ笑いがそこにあった。
小首を傾げ、袷を細い指先で開いて見せてくる。せっかく俺が閉じてやったのに。
寝間着の奥でぷつりと立ち上がる紅色が、瞼の裏にしっかり焼き付いてしまっていた。

「最近よく吸わせていたからな。ふふ」
誘われるままに畳に手を付き、ああもうだめだと思う。
「可愛い顔で見るから」
「…ぐ」
耳横に垂れる分の毛束を、熱い指が摘む。

手拭いを絞り直す看病人と、大人しく背中を拭かれる病人。
正しく現実をこなした後、看病人は何故か病人の布団に引き込まれていた。
「寝ろ、って」
「寝すぎたもん」
「だってお前、熱、」
「もう少し冷ましてくれたら、眠れそうなんだ。ンふっ、コン、コン」
「…っクソ」

高杉は、仰向けに横たわる身体の上に乗り熱い乳首を吸った。
布団の中でもじもじと腰を揺らしながら、だ。
よく、これで満足させれば満足させてもらえる。身体が勝手に期待してしまうのを感じた。
高杉の後ろは玩具任せで胸を吸わせ、時にそれだけで満足し勝手に寝てしまうのは都度腹が立つ。
だが今日は別だ。
病気なら仕方ない。

とにかく。俺は決してこの行為自体に感じる訳じゃねえ。誰にともなく高杉は言い訳したかった。
胸を舐められる男が、そのまま受け入れる姿勢を見せてくれるなら良い。
「どうだ、っん、ホットミルク。んふ、あ、ぁん、高杉、もっとチロチロしてぇ…んああ、!」
しかし何だか、これは違うと思うのだ。掠れ声と赤い頬をもってしても違う、筈なのだが。

「たか、晋助、上手だ…ありがとう…可哀想に、寂しいな、すまんな…」
「っんむぅ!」
桂の立てた膝が、脚の間に押し付けられた。固くなっているので気まずい。
そのままぐりぐり撫で回してくる。嫌な予感がした。
布に皺が寄り、肉が巻き込まれ…

「ってぇ!」
瞬間、折れ曲がるかと思った。

っちゅぶ。
震えながらも文句を言おうと唇を離すと、唾液が高く鳴った。
「ああ、ん。今の、強いやつ。もっと吸って…?」
「っクソが!っぅ、く」
「お前だって興奮するだろう。ごほ。少しくらいは、な?」
「…っねえよ!」
お前が喜ぶから。だからこの薄い胸を吸うのであって、それで誰がどうなる話とは、決して違う。
まったくもって余計なお世話だ。

「本当はもう治ってんだろ、っふ」
「そうだ、ごほん、ん、順調に回復しつつある」
「…んだと」
「しかしちょっと、熱がだなあ、うーん」
首筋に熱い頬が擦り付けられ、竦み上がった。
そこで、上下位置が逆転していると気付いたのだった。一体いつの間に。
「あ、あつ。ヅラ、」
小さく喘ぎつつも、病人がはみ出やしないかと何故か布団の両端が気になった。
それが今の高杉の、人としての最後の意地だ。
のしかかってくる身体は熱いし、僅かに軽い。やはり心配になってしまうのだ。

「おかしい…」
「変だろう?特徴らしい…。冷やすならここでと思ってな」
病原菌だらけだろうに、嗅ぎ慣れた布団の匂いに安心してしまう自分が嫌だった。
うつ伏せにされ、間に割り込んできた膝に、ぐいぐいと両足を外側に開かされていく。自然とあけすけな姿勢にならざるを得なかった。
そうして無防備になった尻に、熱くて柔らかいものが擦り付けられているのだ。

「冷える訳ねえだろ!」
「ここ以外には考えられん。氷枕も当ててみたが、痛くてな…」
「…馬鹿言え」
腕を突っ張り上体を起こしかけたが、逆にがっしり羽交い絞めにされてしまう。何だか泣きたくなった。
「ヅラ、あ、今は」
「痛くない。ちょうどいい」
そうじゃない。こんなことをしていては治らないと、そう諌めたいのだ。

むにむにと練り物を詰められるような感覚が、奇妙だ。
変なことに感心してしまうものだ。高杉にとって、そこに当たる桂と言えばいつも硬かったのだ。
ひび割れた壁とか金継ぎの地とか、そんなモノになっていくような気分だった。

「悪いな…」
「な、にが」
此奴が謝るなど調子が狂う。いよいよ病人らしくて不安になるのだ。
「晋助、」
「あ、っヅラ、やめ」
「突いて欲しくて仕方ないのに叶わない可哀想なお前」
「な、…!」
「んふっ、こほん、見てると元気でる…」
「……」
頭は元から病気だったか。

「あ、あ、…」
せめて自分の手で前をどうにかしたかったが、それも情けなくなってやめた。
己に言い聞かせる。腰付近が妙にじっとりしているが、これは布団の湿気が原因だ。元からだった。
後で替えてやるのは自分なので何の問題もない。

「晋助ぇ…治してくれぇ、ん」
お前が元気になるなら良い、いつも通りが一番。
それにしてもだ。いつも通りとは何だ?
「んう~可愛い~ぎゅう~~」
「…っあ!なんで!」
「プチプチが、指、嬉しい」
「や、やめ」
「治ったら俺も吸おう」
これは、この調子は「いつも」と何ら変わらないのではないか。
「た、たたないけど、ん、えっほ!、えっほん、何かイイ」
そりゃあ、めでたい。
俺は、俺は…、何かヨクナイ。

「あ、あ…ん」
高杉は、目の光を失っていた。
抵抗思考と諸々を諦め、最早ぬいぐるみ状態である。

「来た、来たぞ」
「え…?」

ふいに、胸元をくすぐる熱い指の動きが止まった。
腰については考えたくない。揺れていたのは自分だけだったなどと。

「ん、…あ、え?」
「ふう…」
「だ、大丈夫かヅラ」
「ねむけ、が」
「は?」
「ん……ぬ~」
「オイ」
「…ぐう…ぬぐう…ぬうう~」

「チッ!」

やっと布団から這い出すと、暫し呆然となった。
熱くなりすぎたヤカンの蓋が煩い。これに気付かなかったとは相当だ。
ヤカン煩い、水が飲みたい、ケムリが欲しい、ヅラの寝間着、俺の下着。…ヤカン煩い。
ずり落ちる着流しを引っ掛けながら、高杉はふらふらとストーブに近寄った。
たくし上げた着流しの裾で取っ手を包んで持ち上げると、やっと煩くなくなった。

着流しが汗ばんで気持ち悪いが、下着は更に酷い。
「その」つもりで船を抜けて来る訳なので、出る前には風呂に入るし衣類も洗いたてだったのに。ため息だ。
が、幸い自分の下着の在り処は知っている。
引き出しの下から二段目、訪ねる間隔にもよるが、だいたい家主のものよりは奥に入っている。

まず桂の寝間着を取り出してから次の引き出しを掻き回した。ない。
しましまやらワンポイントやら、ふざけた下着を数枚持ち上げ、底に隠れていないか確かめる。ない。何枚か置いていたのに、一枚も見当たらない。
取り敢えず桂の物を一揃い取り出し、正座した自分の膝の上に置いておく。
気を落ち着け、やれることから取り掛かることにしよう。

お着替えしましょうねセットを手に、高杉は布団の側に戻った。
「ヅラ、着替え」
返事は、ない。
「ん…」
襟元に手を置くと、すりと押し付けられる顎先。ぐう、と喉奥から低い音が漏れた。
何か喋るのかと待ったが結局それだけだったので、唇を合わせた。
俺には感染らねえ。…さっきも吸った訳だし。

何だか強気になってきて、桂の襟元をぐいと上に引いてみた。
「や。も、眠い」
珍しくまともな返答である。
「汗。かいたんだろ」
むうむう呟く首にそっぽを向かれる。と言っても身体から抵抗は無いので、さっさと布団と寝間着を剥いでいった。
帯を抜く、襟元をくつろげる。
見ろ、着替えさせるくらい俺にもできる。

「何穿いてやがる…」
と、そこに現れたものに思わず声が出た。
先ほど拭いたのは上だけで、帯から下は見ていなかった。

「ん?ああ、これは柔らかくて良い」
穏やかな肯定。両手両脚を軽く広げ四肢を投げ出した病人が、にっこり笑って見上げてくる。
一瞬ぎょっとした。まるで睡眠と覚醒が至極単純なスイッチで切り替わるようだ。
「っ!…じゃねえよ!まさか」
「すまんな、気持ち良さそうで借りてみたんだ。大正解」
「なあ、俺が置いてた分か」
「えへへ。あ、ちょうど使い切っちゃったかも」
「ああ?」
「違うぞ、穿いて替えて穿いて替えてで、今は洗濯物になってるだけだ。使い切ったとは語弊が…ウン、捨ててないから安心しろ」
「な、」
「そうだ、エリザベスが洗ってくれたかな?」

外で、風に揺れているのだろうか。この長屋の窓の外に、何枚も並んで?
窓辺に駆け寄るか悪態を吐くか迷った末どちらも必死に呑み込み、桂の腰から白い褌を引き抜いた。
汗をかいたと言うだけあり、中から雄の匂いがした。何かが疼くでもなかったが、知らぬふりでやり過ごす。
くそ、くそ。

桂の背中を持ち上げ、少し乱暴に寝間着も引き抜く。代わりに洗い立ての方を押し込み、妙なワンポイントのボクサーパンツを手に取った。
「えー!」
「んだよ!」
「やだやだ!治るまで俺は褌だ。もう決めたんだ」
こめかみがひくひくする。
「…洗っちまったんだろ!」
「それな。乾いてるかもしれん」
ヅラ拭きは、中断した。

軋む窓を開けると、軒下には確かに洗濯物がぶら下がっていた。先ほどは月に見惚れていて気付かなかった。
見慣れた桂の青い着物、白い足袋、…これは何だろう。見覚えがあるようで思い出せない、紅葉の形をした黄色い布袋。バスタオル、手拭い、寝巻き、襦袢、寝巻き。
「こうやって干すのか…あった」
他の洗濯物をかき分けていくと、まるで隠すように物干しの中央に吊るされていた。
夜風に堂々とそよぐ己の褌。そんな間抜けな光景は杞憂に終わり助かった。それは良いが、見つかったのは一枚だけ。
その貴重な一枚を片手にぶら下げ戻ると、桂は無邪気に喜んだ。

「お、乾いてたか。怒るなよ、エリザベスは、いつもはちゃんと日が落ちる前に入れてくれるんだ。たまたまだな、たまたま」
「他はどうした」
「じゃあやっぱり洗濯カゴだろう」
また頭に血が昇る。
「高杉…」
布団を口元まで引き上げ、心細そうな顔。
もう言い逃れはできない。これは、ぐうの音だ。
「そんなに気に入ったか」
「今パンツ履くと、締め付けられるみたいで辛いんだ。ゴホ、ゴホン、お願い…」

今夜二度目の舌打ち。
「次は無いと思え」
こう何度も開け閉めしているうちに乾いてしまうのではとも思ったが、これが最後と念じて布団を開けた。
「あ、いや、恥ずかし…」
「るせ」
心を無にして下半身を拭い終え、胸中泣く泣く最後の褌を付けてやった。

風呂上がり、何穿こう。
代わりに桂のボクサーパンツ、は絶対に嫌だ。
赤いしましま、バックに相棒の似顔絵イラスト付き。あんなふざけた下着は御免である。
とは言え…。

「じゃ。ありがと杉ィ…むにゃ」
ひっそり項垂れる高杉を残し、桂は満足気に眠ってしまった。

 

『ただいま戻り申した!』
翌朝は、柔らかな小春日和となった。

『あり?』

エリザベスは、出掛けとは逆の光景に首を傾げた。
すっきりさっぱり、本編メンバーは誰も知らない、彼だけの休養所からの帰宅である。

「おや。おかえりザベス」
『すっごくいい笑顔?』
「お陰で元気になったぞ。心配かけたなあ」
『どういたしまして』『じゃあ白くま待ってます』
「え?」
『え?』

「んう…」
桂の布団で、片目の男が寝返りを打った。
トレードマークの包帯なしにそうしていると、どっち側の目がお悪いのでしたっけ、とエリザベスは分からなくなる。
「見えてる方だな」
二人から見える高杉の背中は今、左肩が天井を向いている。主からのヒントに、挙手のち質問。
『いま布団から出てる方?』『左が、見えない方ですか』
「その通り。よくできましたあ」
『わーい』『ていうか』『吸ってたのに』『感染っちゃったんですか?』
あれ、と手で示す。どう見ても、疑うのが筋だ。
「それはセーフだ。ふふ、夜通し見てくれてたみたいでな」
夜通し?!『超偉いですね』
「お前と一緒だろう?お前も、超偉かった」
ああ、本気で信じていたのか。『勿体なきお言葉』

『ところでお薬は?』
最後まで飲みきるよう医者から念押しされている。
やれ苦いだ多いだ駄々を捏ねる男に飲ませるのは案外楽しかったのだが。
「飲んだ。朝イチのぶん。コンプリートしたぞ!」
『桂さん偉い!』
本心からだ。わざわざ子供用の服薬ゼリーを探してきたりと、エリザベスは頑張ったのだ。
プラカードを足元に置き、ぼすぼすと頭を撫でてやった。
「お友達」が眠っていて良かった。こんな光景は見せられない。
「ふふ、早く遊びたかったんだ」
『高杉さん』『頑張ってくれたんですねえ』
何とも微笑ましい話である。
「ああ。後でエリザベスからも褒めてやってくれ」
『任せろ』
「じゃ、朝のお茶でも飲もうか」

壁際で眠る客人を思い、桂とエリザベスはボリュームを落として朝の連続テレビ小説を観た。
こればかりは日課なので譲れない。因みに、病気のあいだ桂は布団から観た。

『大丈夫ですかね』
「最後の、お母さんの方?俺が思うに、」
『連ドラじゃなくて…高杉さん』
「なるほど。気にするな、あれでなかなか面倒見の良い男でな…」
『ふうん?』
エリザベスには、ピンとくるものがあった。何か聞いてもらいたいことがあるらしい。

「明け方ぱっと目が覚めたんだ。俺は元気になったんだと、分かった。高杉は、このちゃぶ台に突っ伏していた」
テレビの画面が切り替わり、健康コーナーが始まった。口の間から「触手1」を伸ばして湯呑を手にする。
「うたた寝していたらしいが、でも顔を上げて、こっちを向いたんだ。で、笑ったんだ。元気になったんだな、って」
桂もお茶を啜った。続きを待ったが、ふう、と満足そうに湯呑を置くだけだった。
『終わり?』
「終わり。それが嬉しかったんだ。とても嬉しかったです」
ほう、と思わずため息が出た。
実はエリザベスも昨夜は…特に言う必要も感じないので、うんうん、と頷いて見せるだけに留めた。

「…最近はやってますねえ、インフレベンザ」
と、聞き捨てならないワードが聞こえた。
女性コメンテーターの言葉に、二人は揃ってテレビに顔を向けた。
地球人と天人、どちらからも医者を招いての特別コーナーらしい。

「トートー星から持ち込まれたとか」
「そこは間違いないです。それとね、嘘みたいな話ですが、患者さんのほとんどが男性なのは偶然じゃないみたいでね」
「まだ断言できるほど研究が追っついてないんですけどね、どうにも否定できないんですよ」
「そうそう。タバコなんか吸ってる人は、てのはもう裏付け取れましたけどね」
「という訳で、次の画面を…はい、お願いします」
『便座によく座る人ほど耐性あり?』

エリザベスは、あっと思った。
『これ、聞きましたよ』
「マジでか。えっ誰から?」
『ひみつ』
「エリザベス…?」
『街で』『飲み屋の女将さんが』
「エリザベス。外で…やさぐれたオッサンごっこしてるの、知ってんだぞ」
『だっ誰が』『あれこれ吸ってるだなんて』『言いがかりです!』
「…いや、良い。俺が悪かった。誰にでもプライバシーはあるものさ」
『桂さん…』
「いやしかし、吸わせるのも悪くないぞ」
『うわあ』

「…だからと言ってトイレに入り浸りましょうってのも変な話ですしねえ」
「それはそれで他のウイルスの危険性がでてきますから」
「処方されたお薬は、医師の指示通りに飲みきりましょう。あとはシンプルですが、うがい手洗いをね…」
実際に経験した身には釈然としない締めだったが、「今のところは」と健康コーナーは終わった。

『ウイルスの形』『ガセネタですって』
「え~~?」
『名前も偶然被っただけですって』
「はあ~~~ん?」
『見付けたお医者さんの名前とか何とかって』
「…逆にすごい」

『でも、重症な人の話も』『今んとこ聞かないですしね』
「お陰でチヤホヤされて俺は満足したし」
何やねんだけど、まあ、もう良いか。二人はお茶を啜った。
『ぶっちゃけ』『かなり動揺してましたよね』あの高杉さんが、と手を向ける。
「うんうん。…あ」
『桂さん』『悪い顔』
「起きたらな、こう褒めてくれないか。ああ、ちょっとそれ貸して」
『えー。何ですか、もう』『はい』
キュ、キュ。
桂はプラカードに何事か書き込んで、エリザベスに返した。
それをじっと見つめた後、エリザベスは自分の言葉を書き直す。
『怒られても』『知りませんからね』

 

そんな病気が本当にあったのか。
高杉は、布団の中で人知れず驚いていた。
エリザベスが帰ってきたくらいから、実は目覚めていたのだ。
桂が話していた復活の瞬間は覚えている。
風呂を借りた後、迷った挙句に下着は付けなかった。紅い突起を思い出しながらうつらうつらしていた時だ。
要らないことを話されなくて良かったと思う。
むくりと起き上がった桂には驚いたが、さっぱりした顔だったので、湯冷ましを注いで渡した。
それを飲み干すと妙に張り切って、また布団に引きずり込まれたのだった。

それにしても、褒めろだ何だと一体何の話だろう。
桂の声しか聞こえないのが歯痒くて仕方ない。
気になるが、この位置では横目で見るのも叶わなかった。
頭と足の位置が逆だったら、見える方の目があいつらに近い方にあったなら。

そもそも俺は何故この布団に居るのだ。
一体いつから病人の寝床を取り上げる程の傍若無人に成り下がったのか。

違和感を覚えた。
こっそり身体の位置をずらすと、腰の奥に潤いがあって、それが音を立てた気がした。
布団の中で手を腰にやってみる。下着は。どうしたのだったか。
腰骨には、ぴったり添う慣れないゴム生地があった。

「ああ…出せたよ…本当に治った…。お前は?どれ。ふふ、良かったな」

「全く手のかかる奴よ。ノーフンは良くないからな、大サービスだぞ、ほら、脚を…こら……寝…な…」
そうだ。
その頃にはもう、撫でてくる手よりも自分の身体の方が熱かった。
それで安心して、眠ったのだ。