薬も飲んで大人しく寝ているのに、熱がなかなか下がらない。
布団と深い仲になって久しいと感じるが、実際はせいぜい二日しか経っていないのであった。
何もしないと時間が経つのが遅い。ぬるぬるぬるぬる、まるで亜空間だ。
当の生き物に失礼だろうが、なめくじの世界に浸かってしまった気分なのだ。
そんな中、高杉は少なからず焦り始めていた。
朦朧とした時間を這っているとは言え、鼻持ちならない他所の糞ガキとの約束を忘れた訳では無い。
それは明後日の夕方に迫っていた。
くそ…。低く唸り、その拍子に喉に走る痛みに小さく咳き込む。この上なく惨めだ。
あの顔を思い出すだけで腹わたが煮えくり返ると言うのに。
今すぐ飛び起きてこの布団を真っ二つに引き裂きたくなる。
その体力があればの話だが。
下から睨めつけてくるんじゃない、とか甘ったれ御曹司、とか。
もう何が一番の論点かというと、正直自信が無かった。それは向こうも同じであろう。
因みにだが、タケさんちのサバ猫に関しては絶対である。俺に撫でられる時が、一等気持ちよさそうなのは譲れない。
兎にも角にも決闘なのだ。
胸の奥がむかむかし出し寝返りを打つ。それだけでも、わずかに出来た隙間から悪寒を感じてますます嫌になる。
布団に潜リ直したその時である。
「聞いたぜえ」
明るい障子の向こうから、聞き慣れた少年の声がした。
「銀時!?っう、けほ」
驚き、立て続けに咳。
「かーわいそ。マジだあ。…だいじょぶ?」
突如現れた銀時は、やれやれと肩をすくめてから障子を閉めた。
小馬鹿にしながらも側にやって来て、ちゃっかり座り込む。
大丈夫じゃない。けれど気の利いた悪態も閃かない。
痛む頭も相まって戸惑っていると、額に湿った手が載せられた。
「聞いたぜ」
「…なぎ、う、ぐし、何を」
懐から差し出された水色の手拭い。
常なら「んな汚えもん使えるか」と押し返したかも知れないが、素直に受け取った。
ふわりと洗剤の柔らかな香り。銀時も、松陽に愛される一介のこども、なのである。
良かった。って何なんだ、俺は。
「悪い。洗って、返す」
目を丸くした銀時は、鼻の下をこすりながら満足げに何度も頷いた。
「良いってことよ。…お前よ、フレンズとデートの約束してんだろ」
何の話だろう。鼻水を拭いながら、ゆっくり起き上がった。
ぴんと来ないのを見兼ねてか、ヒントが与えられる。
「治らなかったら、代わりに一捻りしてきてやっても良いんだぜ?」
分かった。今の今まで考えていた、正にそれじゃないか。
「いやー、あの子の名前なんだっけ」
銀時に人の名前を覚えようとする気があったとは、意外だ。
「堀田、だ」
「ほ、った?穴を?」
「…持った。…持田かな」
「も、ち?そんな美味そうな感じじゃなかったぞ、それは分かる」
「新田かな」
「に、った?違うでしょ」
うーん、うーん、なんだっけ。それらしく腕組みをして考え込む姿に、力ない笑いが漏れる。
「あ、思い出した!堀田くん!」
「だから初めから言ってんだろうが!…ゲェホ、ッゲホ」
「うわ、大丈夫?」
耐えきれずに大きな声が出た。すかさず背を擦ってくれる。
喧嘩もするが、此奴はやっぱり、俺のこっち側だ。
「で、そのホモニくんがさ」
「堀田だって」
嫌いな奴の名前を連呼させないで欲しい。
「堀田持った新田。良くない?」
「…ああ」
「アイツのあだ名けってい!」
後でヅラにも申し送りをしとかなきゃならねえな。
「でね、ホモニくんがね、ブサ面でくっちゃべってんの聞いちゃった」
「悪寒しかしねえ」
「『高杉の奴、明後日は不戦勝だなヒャッハー』ってさ」
「!あんの…野郎!」
ぐぎぎ、と奥歯を噛み締めた。休みなら延期だろうが!
這ってでも、そして這って行く前提なのに間違いなく「倒しに」行くと信じて疑わなかった自分の思考回路には目を瞑ることにする。
「すぐ治したいだろ?」
「ああ。今から気合い入れて寝るぜ、俺あ」
「待て待て待て待て」
「銀時、よくやった。褒美を取らせる。おやすみ」
「えっ何だろう、ありがとう楽しみ!じゃねえよ、まだだから、本題ここからですう!」
「…ん?」
沈んだ枕から頭をずらし、銀時の顔を見る。
うむ、と頷かれた。
「治したいだろ?だからな、良いもん持ってきた」
「…喧嘩も遊びもできねえぞ。俺、へばってんだ」
「分かったから!ああ、もう。これだよ、これ」
銀時が手拭いの次に取り出したのは、小さなアルミ製のおもちゃの部品、のような何かだった。
「お前、初か?」
無言で凝視していた。
「こないだ、俺も風邪引いて休んだ時あったろ、あん時な、松陽がやってくれたんだ。したらマジで治った。瞬殺だった。これはマジでやべえ。俺が、やってやるからな、バンバンジーだぞお前」
話しながら、不器用にその部品を弄り回している。何だか心配になってきた。
「銀時、それ、何?」
「ジャヤク、っていう薬なんだって」
「弱?…よわい?」
「弱くねえよ、最強だってば」
訳が分からない。ますます頭が痛い。
「ほら!」
なるほど、部品ではなく銀色の包み紙だったという訳だ。
満面の笑みで、中から現れた白い錠剤を見せてくれる。細長い。色やなんかが、梅の種の中に入っている核みたいだと思った。
「これをね、ここぞって時に一個だけ、だって」
「松陽先生が、確かにそう言ったんだな?」
「うん。最初痛かったけど松陽上手かったぜ」
痛い?上手い?
「…間違いなくその薬だったか?」
「薬箱で、他の飲み薬とは別の袋にしまってるから間違わねえよ」
「よし、くれ」
「いよっ!オトコ晋助!じゃあお尻出して!」
「…は?」
顔を見合わせる。銀時の顔には「ですよねー」な苦笑いが広がっていた。
「ちょっと待て!」
「いや、いやいやいやいや、ほんとなんだって、そう言う薬なんだってさ、マジで」
「しょうもねえこと企んでるだろ」
「…っでねえよ!お前病気なんだぞ!もうカンチョーする訳ねえだろ、あれ禁じ手にしただろ!そんぐらいなあ、脇しまってるわ!」
「しまう?」
「大人の考えができるってこと!」
「…俺は大真面目だ。あの野郎はボコボコにしてやんなきゃ気が済まねえ。分かってくれるだろ?」
「おうとも。つうかさ、ホモニくんだから。せっかく決めたんだから使えって」
「でも何か、あるだろ?」
「ねえし」
「吐け」
「ああもう!これを言い訳にして、触りたかったの!ちょっとだけ!」
「触るって何を」
「お前を!」
「は?何で」
「か、可愛いから!」
「……」
「俺も弟とか妹とか欲しいもん!何かお前可愛いの!面倒見てあげるの!」
「………」
これくらいの言い合いは序の口の筈だが、タイミングが悪い。
正直、高熱の身体には既に堪えていた。
とにかく全てが面倒だった。
悪意じゃないなら、もう、良い。銀時だし。
「これで良いだろ!銀兄ちゃん優しくするから黙ってお尻見せなさい!馬鹿!」
「見んなよ、絶対目瞑ってろよ」
「それじゃあ上手く入れらんねえだろ…」
「なあ、たぶん汚いから洗いたい」
「ケツだもんね…。分かった、俺閃いた!救急箱ある?」
「救急箱?確かそこに」
顎で示した先に、銀時は喜々として飛んでいった。
中には、医者から貰いたての薬も入っている。
あの子供だましの奇妙な甘ったるさは、逆に辛いものがある。
治りかけても飲み切ること。銀時なら、絶対松陽の目を盗んで中身を捨てるだろうな。想像して、くすりと笑った。
「あった!消毒液!」
「それは転んだ時に使うやつだろ。どうするんだ?」
「これでさ、消毒すればオッケーでしょ」
「どこを?」
「高杉、頭切れるだろ」
「…お前よりは、たぶん」
「言ってろ!まあ良いや、見逃してしんぜよう。では読んでください、はい」
「シュパッと」
「違うう!この漢字は何と読みますか、はい晋助くん」
辛い。銀時、俺はいま病人なんだが。
銀時のテンションが異様に高いが、自分が弱っているものだから相対的にそう感じるだけかも知れない。
ちょっと限界だった。
頭の中で、ぐわんぐわんと中華鍋の底が鳴っているみたいなのだ。
「う、ヴン、…毒」
「こっちは」
「しょう」
「ぐぬぬ。えーっと、んーと、…はい晋助くん、この漢字に読み仮名を振って下さい」
「しょう…」
「違う違う、音読みじゃないほう」
「消える」
「惜しい!黒板を?」
「消す」
「正解!つまり?」
「銀時…勘弁してくれ…」
「わ、はい、ごめん、はい。あのね、毒なら何でも消すんです。エホン、つまりこれ付けてティッシュでお尻を拭いてから、お薬します!」
「分かった…」
「はい次の方あ。高杉、晋助くん。今日はどうしましたかあ、お風邪ですかあ。すぐ終わりますからねえ、それじゃあ、お尻みますねえ」
選択肢は無かった。彼に賭けるしかないのだ。
もう、されるがままである。
言われるまま布団の上に四つん這いになり、寒いと訴えて上半身だけに布団を被せてもらう。
寝間着をたくし上げるのはどうにか自分で、褌を取り払うのは銀時。もう成るように成れ、だ。
こちらが抵抗しない、と言うかそんな力も無いので銀時も素直に優しかった。
「銀、見んな、早く、早く消毒してくれ…っ!」
ただ、なけなしの羞恥だけは訴えさせてもらった。
無性に泣きたい。
「はい、はいはい、シュパ!もう少し濡らします。入り口、消毒しますね…」
…ぴと。
思ったほど嫌ではない。
そのまま優しく拭われる。
消毒液は、怪我をしていないなら痛くないんだな。なんだ。大したこと、無いな。
ささやかな冷たさ。ツンとした匂いは、清潔さを感じて悪くない、とまで思った。
こんな悪ガキが兄なんてまっぴらゴメンだが、やはり俺の銀時は、良い子だ。
ん、俺の銀時…?
「銀時…」
「え?な、なあに?はあい?」
「頑固な油汚れを落とすみたいに拭きすぎじゃねえか…?」
案外気持ちよくてウトウト、と言うより熱で気絶に近かったのかもしれないが、意識を手放しかけていたところから、ふいに現世に戻ってきた。
消毒液も乾燥してしまったようで、ティッシュの感触がゴワゴワしている。
嫌な仕事だろうに丁寧にやってくれるのは物凄くありがたい。
しかし、流石にやりすぎではなかろうか。
「わ、ごめん!うん、もう綺麗になったと思う。うん、完璧。えっと、じゃじゃじゃあ、入れようねえ」
銀時が善良な小児科医かというと、答えは否。
弟みたいに可愛がりたい、なんてよく言えたものである。
本人は頑として認めないだろうが、明らかに邪な気持ちがあった。
下心と親切心の割合は七三分けくらい、いや、もう少しだけ、あちらの割合が。
高杉がへそを曲げたり気付いたりしませんように。
余計なことを言ってしまわぬよう細心の注意は払っていた。
プロジェクトG…G…ギックス、そのオペは、時間と集中力との勝負だった…。
さて、いよいよ注入である。
自分がされた時を思い出す。
笑顔の松陽。あの「ツルッと」は、凄かった。
「これでツルッと入りますからね」
最後のキーアイテム、家から持ち出した軟膏の登場である。
青いプラスチックの蓋をカポッと開ける。この「カポッ」が地味に好き。
右手の小指にひとすくい。ジャヤクにささっと塗ればオーケーだろう。
カンチョーとは訳が違うのは、言われずとも重々承知だ。
この薬が今からこの小さな身体に吸い込まれて、中を駆け巡って元気にしてくれるのだ、と思うと胸が熱くなる。
宇宙船を見送る科学者なんかは、こんな気分だろうか。
頼むぞ、天人を撃って、それより何より、無事に帰ってこいよ…!
待てよ。
銀時は一呼吸ぶん考え、軟膏に濡れた小指を直接高杉の穴に当てた。
へええこうなってるんだねえ、なんて馬鹿なことを口走ってしまわないよう、必死に耐えながら。
尻の穴は、それだけで小さな生き物みたいだ。イソギンチャクとか、中に粉を隠している丸いきのことか。
本人の呼吸とは微妙にずれたリズムで軽く収縮している。
尻そのものの肌より、赤黒い。のどちんこ見てるような感じなのかなあ。
グロテスクなんだけれど、でもなんだか可愛いなあ、と思った。
「、あ、」
早速本物が来たと思っただろうか、高杉の尻が心持ち突き出される。
偉い奴だ。感心する。
そおっと、小指を進ませてみる。
「ん、もっと、押してくれ」
高杉の息が荒い。どうしよう。
早く治したいから、嫌な薬も早く入れてしまおうと頑張っているのだ。
ああ俺は、なんてことを。
「の、飲み込めねえ、見た目よりすげえデカい気が、する」
「高杉、ゆっくり入れるもんだから、これで良いんだ。落ち着け、な」
銀時は内心焦った。そんなつもりは無いのだが、結果的にこれは悪意になってしまう。
何か、一瞬で良い、気を逸らせないだろうかと目線を泳がせた。
「あ、縫い目…」
予想もしなかった発見に声が出る。
「な、に?」
高杉の尻の向こうにぶら下がるもの、その裏側に関してだ。
「高杉のちんこも、縫い目あんのな」
銀時にもある。
てっきり、もう記憶も無いくらいのもっともっと子どもの頃、誰かに変な改造手術をされたものだと心配していたのだ。
「…ヅラもあるってさ。皆んな、あるんだ」
「そっか、良かった…そっか」
「あ、っは、知らないと焦るよな」
「へへ。良かったあ」
そっかそっか、と穴に入れていない左手を伸ばし、縫い目をそっとなぞってみる。
「っふ、銀、やめろっよ」
高杉が笑い、穴が、きゅっと窄まる。
あ、今なのか。
安心ついでに本来の目的を思い出した。
ちゅぷ、と小指を抜き、左の手の平の中から薬をつまみ上げる。
尖った方を穴に差し込み、小指で慎重に後追い。
「あ、何か、変わった…!」
「高杉、大丈夫、大丈夫だから。入りやすく、軟膏塗ったんだ」
「は、うわ、分かる…あ、俺、ちゃんと、飲んでる…?」
当たり前だ。今度はちゃんと、尻が飲める物を入れているのだから。
でも上手い。いかした言葉だ、と思った。
「ああ、良いぜ、上出来。その調子だ」
じっくり飲ませてやった。
小指の先に感じていたものが、いつしか無くなっていた。
そっと小指を抜いてやる。
「おくすり、飲めたね」
「ん、ああ…」
高杉は、酷く眠そうだった。
「これで、すぐ治るぞ」
「ああ…ありが、と、ぎん」
「明後日、決闘場、ヅラと応援に行くからな」
前髪の流れに沿って額を何度も撫でられる。この悪ガキ…本当は一等優しい奴なんだぜ…
「ウチにある木刀、予備で持ってってやる」
「そりゃ安心だ…」
「おにぎり、ヅラに頼んで作って貰おうな」
「ん…」
「俺の分は、おはぎにしてって言っとこーっと」
…ヅラ、断って良い…ぞ
ふう。
深くもう一息分を吐き出したのは、夢の中だったのか、銀時の手の平に向けてだったのか。
片手に握り締めた銀時の手拭いの感触が、最後まで妙にはっきりしていた。
安らかな気持ちだった。
二日後。
高杉は背筋を伸ばし、決闘場、正しくは神社の境内にきっちり立っていた。
場外には勿論、心強い応援団。
たった二人だが、それでも応援「団」である。
爽やかな秋晴れの日だ。
中央の石畳では高杉と堀田が向かい合い、周りを十人ほどの子どもたちが取り囲んでいる。
半分は、どちらかの味方と言うより物見でやって来た子だった。
「馬鹿正直に一人で来たんだな。助太刀は無しか?」
会話は聞こえないだろう距離だったが、偶然にも銀時が野次を飛ばす。
「いけっ!ぶち破れえ!」
すぐに隣の桂に窘められていたが、堀田の気分を悪くさせるには充分だったらしい。
「いるさ。アレだ」
「ハッ。あの鬼の子、やはり阿呆だろ。随分マヌケ面してやがる。桂は助けてくれないのか?」
「桂は、また別だ。…助太刀はな、天パ一匹いれば良い…」
竹刀を握り直して深呼吸をした。
「高杉、楽しめ!みんないるぞー!おはぎ食ったらうめー!やったーやったー!いけー!」
「…るせ」
もう食ったのかよ。
おもむろに立ち上がり、桂が中央に近寄ってくる。
いよいよだ。これには堀田も黙っていた。
「よおい」
双方、竹刀を構える。
「始め!」
いきなり鍔迫り合いになる二人から離れ、桂は、おやと思う。
高杉の襟元に、見慣れた水色の布地が見えた。
彼らは順調に、成っているようである。