けものの明日4
高杉は、かつての仲間を訪ねる事にした。
部下と言っても、当時すでに妻子持ちだった男である。目まぐるしく二転三転する世情を押さえながら、よく冷静な意見をくれたものだ。
そうして立ち寄った湖のほとりの街には、涼やかな風が吹いていた。
訪ねた家は全体的に黒っぽく見えた。聞くと、柿渋で染めた、らしい。
「昔、隊で借りていたお家で、こんな所あったでしょう」
そう彼に言われても、とんと思い出せない。頭をひねったところで出てくるものもなく、彼の仕事を褒めるだけにしておいた。
ところどころ禿げてはいるが、屋内の漆塗りの柱も良い。
彼の子どもたちは既に成人して家を出たという話だった。家の中は静かである。
彼の女房と直に会うのはこれが初めてだ。
「その節は。ご亭主には感謝してもしきれません」
玄関で揃って出迎えてくれた夫婦には、まず深く礼をした。こういう時、何も言わないでもフクは一緒に挨拶してくれるようになっていた。この素直さのまま育ってくれると嬉しいのだが。
部下本人よりも、何故か彼女の方に会いたかったように思う。頭を上げるとちょうど二人も上げるところで、目が合うと女房は微笑んだ。
これが、あの頼れる男を支えていた女房か。
切れ長の目が、笑うとますます細くなる。きびきびとした立ち居振る舞いが美しい。頼り甲斐のある婦人だと思った。
茶道の心得がある女と聞いたことがあったが、今は街で師匠をしているそうだ。
実は楽しみにしていたのだ。これは良い機会、と彼女に申し入れると、快くフクへの稽古付けを承諾してくれた。
これが間違いだったのである。
屋敷で見せられた桂の手前を面白がってはいたが、そこはまだ子ども。改めて「授業」とされると耐えられなかったらしい。
女房に連れられ街の教室に入ると居並ぶ土地の少女たち。それは確かに驚いた事だろう。
見よう見まねで入室の作法を教わっていたが、いざ座敷に並んで座るタイミングになると「これは」と彼なりの判断があったらしい。
「少し散歩してきます」
教室を出たきり、フクはエスケープしてしまったらしいのだ。
女房から連絡を貰った時、高杉は亭主と差し向かいで昔話と土地の鮒鮨を肴に、のんびり昼間から酒盛りをしていた。
特段慌てなかった。
荷物を開き、取り出した竹製の電子手帳に電源を入れる。フクの背守を探索すると直ぐ見つかった。
本人に知れたら悪い結果が予想されるので、自分がこんな機器を使っていることは内緒だ。
画面を亭主に見せると、そこは材木の問屋街だという。
迷惑を掛けてしまったと女房に詫び、重い腰を上げた。
街を歩くのも良いものだ。
しかし、示された場所に立ってもフクの姿は見つからなかった。
大型の輸送船がぽつぽつと停まる通りである。家具を扱う店や、材に関する貼札と共に角材をずらりと並べる倉庫。
隙間に隠れてはいまいかと、店との間や物陰を覗くもやはり居ない。
七つの男児だが、と細かい端材を取り扱う店の店主に聞くと、笠を被った母親に連れられた子なら見たが後は分からないとの返答だった。
さてどうしたものかと懐を探るが煙管は無い。久しぶりに出る癖だ。
煙をせずに今までどうやって、と考えたが、そんな時はフクの頬を突付いていたのだった。
困った奴。
溜息をついてぼんやり周りを見渡すと、車止めの上に、見慣れた小さな上着が乗っていた。
フクは、女の子ばかりの空間から必死に逃げおおせたのも束の間、街外れの公園で懐から取り出した飴を舐めているところを捕まった。
「先生の弟子」を名乗る若い女だ。
「先生は怒ると怖いんですよ。頼まれてお迎えに来ましたよ」
心底驚いた。逃げ出した事は父の耳にも入り、教室で平謝りをしたらしい。
父様が…。背筋が凍った。
もう逃げ場が無いと流石に観念する。
「特に今日は、逃げてしまうなんて勿体無いですよ」
女の言うに、今日は特別で、皆は山に建つ庵に向かったという。
途中の小川で水を汲み、野の花を摘んで庵に生けるというのだ。
ほんの少し、心を動かされた。
堅苦しい座敷での授業は始めだけ、とどうして誰も教えてくれなかったのだろう、意地が悪い。
「向こうにはお父様もいらっしゃいますよ」
なんだ。
「じゃあ行きます」
フクは素直に、その若い女の後を付いて歩き出した。
おかしいと気付いたのは、歩く道が、よく手入れされた針葉樹の森から、倒木と広葉樹が入り乱れる密度の高い森に変わって道がどんどん細くなってきた頃だ。陽はもうこれから傾き始める時刻だった。
「まだですか?」
「もう少し」
「あの木の向こう?」
「そうね」
女の歩みは変わらない。
木戸先生の言う「奴ら」について、もっと父から聞いておけば良かった。
どんな顔をしているのか、着物は何色か。
背は高いのか、どんな武器を持っているのか…。
「お前は、自分の父様がしてきたことを知っているの」
引かれる先の手が強張っていることに気付き、初めて本当に怖いと思った。
恐る恐るその横顔を見上げるも頭巾の影で表情は見えない。
「父様は、優しい、よ」
しゃきん。
何処からか刃物の音がして女は早足を止めた。
ぐっ、と急に地面が遠くなる。
「お待ちどうだったな」
腹に回された腕、見慣れた派手な着物の布地が見えた。
高杉は抱き上げた子を片手に素早く後ろに下がる。
女から距離を置くと、
ぽん、と少し乱暴に地面に放られたが気にしない。
「父様!」
尻もちを付くも必死に素早く立ち上がり、その後ろ姿に倣って姿勢を正した。震える脚に力を入れ、木刀を手に中段に構える。
切れた頭巾が地面に落ちていた。中から現れた顔は、まだ少女と言える。恐らく十六、七だ。
その頭からぱらぱらと髪の毛が風に飛んでいった。
「誰の仇だ」
抜いた剣先を地面に向けて下ろした高杉が静かに問うも、少女は答えない。
「お前だけ、のうのうと親子ごっこなどして幸せに死ぬだなんて許されない」
「…そうだな」
少女が懐から取り出した短銃の銃口が高杉の眉間に向けられる。
「…こいつを弟にして可愛がってくれるってんなら、其れで良い」
今頃は銀時と桂も東京に着いた頃だろう。
心残りがあるとすれば、フクを連れてりんごの花を見たかった。
あれは良い。赤い実を宿す花が白い、と知った子供の頃の自分は何やら感動を覚えたものだがフクにはどうだろう。
「父様!」
次の瞬間、小さな体で脛に飛びつかれてバランスを崩し、後ろにひっくり返った。
今後は大人しく赤い実の中にでも隠れてお前の終生を見守ろうと観念した所だったのに。
衝撃で高杉の編笠が飛び、少女も体制を崩す。
不思議とゆっくり流れる景色の中において彼女は眉間にしわを寄せ、心底うんざりという顔をしていた。
どさりと倒れるも子を潰さなかったかが気掛かりだ。と、腰の辺りからうさぎのように跳ね出していく。
「っきゃ」
隙を突かれた少女も体当たりを喰らい、よろけた拍子に近くの樫の木にぶつかって転んだ。
ぱき、がさがさ。運の悪いことにその衝撃で上から次々と小枝や木の葉が振ってくる。それらを振り払うも、今度は崖に脚を取られて後ろに滑り落ちてしまった。
悲鳴が聞こえたが、そこまで深刻な高低差では無い筈だ。
「もういい、行こう」
堪らず笑い出してしまった。
く、くくっ。
「茶会は遠慮するぜ」
一応の声を掛け、フクを背負うと一目散に走った。
「ねえ父様、もう良いじゃない。戻りましょうよ。僕お腹すきました。蚊もいるし、ほら見て、もう二つ喰われました。もの凄く痒い」
もう大丈夫だろうと背から下ろされたフクは暫く自分の脚で歩いていた。しかし限界だ。
と、父は急に立ち止まりじっと崖の向こうを見つめる。その間にやっと追い付けた。
「見ろ、フク。お前の好きなもんがいるぞ」
「…クワガタ?うさぎ?」
それとも鹿?
「ほら、あそこに。こっちに来い」
やさしい笑顔に釣られてしまって渋々その手招きに従う。
隣に立って目線を追うと、逆に高杉の顔はフクに向いた。
「…よく頑張ったな」
手の届く距離まで近寄ると静かに編笠を外し指で前髪を払われた。思い出の中のそれよりもずっとゴツゴツしているのに、何故か生母を思い出す手だ。
「父様。もう嫌だ。荻に帰りたい」
我慢の糸が切れた瞬間だった。その懐に飛び込むと、ぎゅうと抱き締められた。
「もう少し、な」
背中をゆっくりとさする手の所為で後から後から涙が溢れてしまう。
何が可笑しいんだ。こんなに、こんなに僕は辛いのに。何で分かってくれないんだ。
「嫌だ。父様なんか嫌いだ。なんで木戸先生が父様じゃないんだ。木戸先生に会いたい。木戸先生ならおぶってくれる。うっ。母さんみたいに。母さんに会いたい。うう…」
フクはわんわん泣いて、何が悲しいのか自分でもよく分からなかった。
父様なんか、と言いながらしっかりしがみついてくれるのが高杉にとってどんなに嬉しい事か、少年は知る由もない。
親子を見つめるのは静かに揺れる木々たちだけであった。
高杉は人生で初めて感じる種類の感情を噛み締めていた。
これで、親子だ。
心からの不満を口にして甘えるということを、本当はずっとして欲しかった気がする。当たり前に駄々をこねられたかったのだ。
子育てでも何でも物事は最初からこの手でするのが一等面倒で楽しい。
それが出来ないなら如何する。
交わらずに描かれてきた二本の線をどうにか近寄らせ、ねじり曲げて、絡み合わせてゆくしかないのだ、と思う。
人の生という糸。太い糸である俺が、フクを抱き寄せれば良いのだ。
まだ始まったばかりの瑞々しいフクの細い糸。暫しの間その寄りかかる先として、目一杯使ってくれ。いずれは一本で伸び続けて行けるように。
あの隣り合う若木と老木のように。
「さっさと屋敷に帰って、茶を点てて貰おう。特別中の特別だぜ」
「…木戸先生のと全然違った。僕あれ嫌です」
「お前が覚えて帰れば、ヅラに自慢できるぞ」
「あれが本物ですか?」
「そうだ。俺たちが、本物」
ほんものの二人は、手を繋いで、残りの帰り道を歩き始めた。