2023「カッフェ・ラブは突然に」旧版はこちらです-2
ライブハウスを出て歩く。
ところが、チーフの口数は次第に少なくなった。あんなに自信満々だった癖におかしな男だ。
足並みも遅くなり、今や高杉の一歩後ろを歩く始末である。
「おいチーフ」
「む」
「やる気ねえじゃねえか。腹、痛いか」
「そうだな…。君が帰る所に俺は早く帰りたいのだが?部屋は遠いのか」
「…ッハハ。…さてなァ」
高杉は前を向き、再び歩き出した。
歩幅を広くしてみても、しかめっ面ながらチーフはきちんと付いてきた。
通り過ぎる女の子たちの様子も面白かった。
目が合うと途端に逸らされるパターンが続いた。少し考え、へェ、と勘が働いた。
なるほど良い目をしている。そうだ顔は悪くねェんだよ。
ただ、頭がおかしい。
ビール安いなァ、「まだ早い」。
俺はワインも美味そうだと思うが、「待て、あっちの通りも見ようじゃないか」。
決して会話が弾んでいるとも言えないだろうが、いちゃもん、ではなく希望(ということにしておいてやろう)は返ってくるので、高杉は適当に歩き続けた。
「そうか」
「あだっ」
ふいに立ち止まると、ぼす、と背中から衝撃を受けた。
「チーフ、アンタ有名人か」
「むう。前科は無いぞ。見て分かると思うが」
「顔、覚えられてるんじゃねえか?」
「何故」
「ライブとかよ。長くやってんだろ。常連だのが居るんじゃねェか?」
「…いや、どうかな。それなら分かる。気がする」
「……へェ」
なるほど、なるほど。そちらの方が嫌な感じだ。
見た目に騙され泣きを見るからやめておけ、などと注意喚起をして回ってやろうか。
「どうした晋助くん」
「……。チーフ、行くぜ」
そこで己の現状を思い返し、高杉は思考を停止させた。
歩き出すと、チーフはまた喋らなくなった。
流石に歩き疲れいよいよ無言にも飽きる頃。
電球に照らされ揺れる暖簾に、チーフの目がぱっと輝いたのだった。
蕎麦屋、そば焼酎、蕎麦湯割り。
「で、どうだった。歌」
カウンター内の店主がこちらの注文に頷き、仕事に取り掛かる。それを見計らい、きらきらした目を向けられた高杉は、返答に困った。
「なかなか…難解なもんだな」
目を逸らし、胸ポケットをまさぐる。指で摘んで口元へ。
「そうだろう。これから楽しみだな、晋助くん」
「楽しみか?」
「そりゃそうだ」
「そうか…。ああ、楽しみだなァ…」
壁に煙を吐き出し、顔を前に戻す。
「っ!ゲホ」
予想しない至近距離に人面があり、高杉は盛大に煙を吹いた。
「仕込み甲斐がある」
涙目になりながらも冷たい手に片頬を包まれ、茶色い瞳から逃れられなかった。
「もちろん、良いな?」
何年も前に怪我をして開かない片目。最近ではもう、特段意識することも無かった。その瞼を細い指先が往復する。
顎を引こうとするも存外チーフの力は強い。びくともしないのだった。
「君も、大人なんだから」
「チーフ、あんた」
「はい、おまちどうです」
「…フン」
特に変な顔をするでもなく、自然な流れで店員が湯呑と皿を置いた。
チーフは拗ねたように、だがあっさり高杉を開放してくれた。
店員の度胸への妙な感心と共に、高杉は椅子に深く腰掛け直した。
残念な気分になっている自分が、残念だった。
「チーフお疲れ」
「うむ、ありがとう」
ことり、と合わせた湯呑みを持ち上げ、チーフは茶のように中身をすする。真似して口にすると、アルコールが随分きつかった。
「ずっと一人でやってんのか」
「歌か?ああ、けっこう長い」
「コーヒー屋は?」
「御曹司の友人がいてな、良い感じにやらせて貰っている」
「コーヒー好き?」
「そりゃあ、そこそこ好きだな」
一つ聞いて、一口飲んで、一つ答えを貰う。
他でやったら焦れったいに決ってんだがな、と高杉は思う。
何より、満足そうに飲むチーフを眺めるのは気分が良かった。
蕎麦が運ばれてくると、無言で啜りはじめたチーフに高杉も倣った。
「もっと色々聞きたいだろう?」
「…ウチ、来るか」
高杉の発言は、殆ど無意識だった。
瞬時に後悔したが言ってしまったものは仕方ない。
大丈夫、先に風呂に押し込んで、その間に貴重品は見えないところに隠してしまおう。今後の昼飯は、残念だが仕方ない。他の店も探してみよう。
「そうか?俺の部屋でも良い気分だ。子守唄だって歌ってあげるぞ」
「それは、…要らねえなァ」
チーフの部屋は二間あるアパートだった。二階建ての一階。
来る途中で、雨が降り始めた。コンビニで高杉が買った一本のビニール傘に一緒に入り、ここまでやって来た。
初めに押し倒されたのは畳の上。
積極的だなァ、と高杉は苦笑した。
「都市伝説はここにある。お持ち帰りもお茶の子さいさい。バンドマンばんざい」
「バンド」
高杉の口からは、非難めいた声が出た。
一人でやっていてもバンドマンか?笑わせてくれるのだから、ピン芸人の方がまだましじゃないか、と思う。
そこで、チーフが人の考えを読んだようににんまり笑った。
「昔は本当に組んでたんだ」
「へェ……、ん」
忍び込んできた薄い舌は、はじめ冷えていた。
それを絡めとり、ゆっくり温めてやった。
誰かとこうするのは久しぶりだった。
「チーフ、重いんだが。動けねェ」
「重くない。妙齢の俺になんてことを言うんだ。五十五キロだぞ。晋助くんよりも軽いんじゃないか?」
「軽っ!」
「ふっふ。そうとも。いつかこんな日が来るだろうと絞ったのさ」
高杉は、自分に覆いかぶさる男の身体を抱き締めた。
「嘘つけ、あんた初めから痩せてたよ」
「ふ。…と言うのは冗談で、続けようじゃないか」
「アンタ、変だよな」
「ノリがいいんだ」
「辞書、引き直してくるぜ…」
「あ、背中、もっと撫でて」
「チーフ」
「ああ、晋助くん…」
「チーフ。…俺ァ、暫くやってねェ…」
「そうか」
「?」
「気にするな。俺はな、」
高杉は、急に声色が変わった男の顔を、訝しげに見遣った。
聞き返す間もなく、器用にシャツのボタンが外されていく。
「俺はな、食う方なんだぞ」
「食う?何を」
「心配ない、俺達は上手くやれる。さては俺に突っ込みたかったんだな、そうだろう晋助くん」
しきりに顔を撫で回される。言葉が出てこない。
「…二人目」
「ん?」
「今、そっちをするなら、あんたが二人目。だから可能だが…どっちにしろご無沙汰だ。…悪ィ」
「ほう?それは、別に嬉しくもない報告だ」
高杉は、細い男に、きつく抱き締められた。