作品提出の祝杯を上げた後、ギンと会えていない。
自分から言い出しておいて連絡も寄越さない、失礼な奴と思われているだろうか。
それとも彼のような大人には酒の口約束なんて星の数ほど。きっとそうだ。実際そうなら楽な筈だが胸がちくりと痛む。

実は、まず良い知らせが届いたのだ。
これはつまり銀髪の男性モデルの功績に他ならない。
お陰で日常が一気に嵐の中に突入し、自分のことで精一杯になった。
結果通知は学校にも届き、会報誌に載せるなどで真面目くさった顔で写真に写ったり一丁前に何事か語ったりと方々を行き来して、飛ぶように日々は過ぎた。

そうしてお祭り騒ぎの合間に思い出すのは、やはりモデルその人だった。

半年後に個展場所と制作費を与えられ、あれこれと各所とやり取りをするうちに、プロラボでのアルバイトの座も得た。
憧れだった店だ。足を踏み入れるのも取っておきの場所だったのに、まさか働けるとは。
しかし腐ってもそれ関係の学生である。話に聞いていた最新機種を触らせて貰えるのは嬉しい。
仕事を覚えるのは楽しかった。接客やなんかも、意外と。

そこでのアルバイトを始めて7日目の勤務日、カウンターに憧れの女性写真家がやって来た。
顔はプロフィール画像で何度か見たことがある。もう50代の筈だが、間近で見ると常に真摯な空気を纏っていて、若々しかった。
注文票に丁寧に書かれるフルネームを間近で見つめている事実。うっとりしてしまう。

「高杉くん」
自分が呼ばれたと直ぐには気付けなかった。白手袋を嵌めたままの左手をそっと、カウンターの下で握りしめる。

「今年の新人賞のグランプリ、貴方でしょう。拝見しました。素敵でしたよ。何故モデルさんについて語らなかったの?」
そうか貴女は。嬉しさに息が止まりそうだったが、両手をきつく握り直して言葉を見付けた。
「友人なんです。彼は、そう、人目に触れるのを恥ずかしがったので、言えなかったんです。ずっと、彼を作品にしたかったんです」
ふっ、と笑顔を向けられた。
「そう?あれは、ほんものの恋人ではないの」
咄嗟には答えられない。
そんな自分を気にするでもなく、コール天ジャケットの胸ポケットから名刺を取り出す彼女。その口から静かな言葉が重ねられる。

「素敵ね。貴方が撮りたいわ。気が向いたら教えて下さい」

彼女の背を見送った後、手渡された小さな長方形を裏紙に丁寧にくるんだ。
透かしの入った白い和紙の、美しい名刺だった。

10月8日 ギンに会いたい。
自分の予定を考えながら、やはりもう暫くは難しいであろう希望を思い描いた。
頭の中のカレンダーを一旦畳み、歩く。
目的地に向け閑静な住宅街を歩く。なかなか夏が終わらない。

「お世話になります。高杉です」
やって来たのはあの女性写真家のアトリエ兼自宅だ。
心地好い湿気を滲ませた、不思議な男性ヌードを精力的に発表する作家である。まさか自分がこんな役を仰せつかるとはな。

各紙のインタビューで知っていたが、想像以上に淡々とした時間だった。
見られているのに彼女の感情が分からない。撮りたい、残したい。それだけ。
「こちらを見つめて」「寝返りを打って、そのまま」「目を閉じて」
こちらは静かな命令のままに時折身体を動かすのみだ。次第に現世のことなど忘れて真っ白な存在になっていく感覚に陥る。

しかし時間が経つとまた別のことを思った。
見られているのはこちらだが、逆に彼女の好きなもの、性質がよく分かる気がした。
俺の何がお気に召したのだろう。かたち、あるとすればだが、その中の何か。
彼女は純粋にお気に入りを捉えようとしている。自分がいちばん満足できるかたちで。
そこには、大好きな玩具に夢中になる子供の純粋さが色濃く存在していた。

高慢にも考察していた所で、眩しい光。
まだ室内光でも続けられるだろうにタングステン?
向けられる光の強さに、一度開いた瞼をまた閉じた。
瞼の裏に、白い男の身体が浮かんでは消える。これじゃまるで。
ハマったのは俺じゃないか。

「はい、終わり」
顔を上げると、優しい笑顔を向けられていた。機材を置き、彼女はベッドに歩み寄ってくる。
隅に押し遣られていたタオルケットを持ち上げ、ふわりと背を覆うように掛けてくれた。
思い出すのは幼い日の風呂上がり。鼻の奥がきゅうと収縮する。
瞬間、この世界には怖いものなんて何も無い心地がした。
肩に手が乗せられ、目を閉じる。
触れるかどうかの位置に熱を感じ、額に彼女のそれが重ねられるのが分かった。

「ありがとう。見てくれて」

帰りがてら「見る」ということについて考えた。
見せてくれて、ではなく「見てくれて」、確かにそう言っていた。
意味を想像するも、実際のところ正解なんて必要ない。全く困らない。
それはそうだが、不思議な高揚を感じていた。

確かにギンはレンズを見ていた。俺のレンズ、いや違う。
作品の材料として自分を見つめる目、戸惑いを持って見つめる目。
同居するどちらの俺も許した上で穏やかに見てくれていたのだ。
見てくれてありがとう。か。
俺がギンの姿に戸惑ったのは、作品に使う以外の魅力を感じたからだ。
彼は、こちらの欲望に気付いたろうか。

びゅう、と強い風がひと吹き。今のはほんの少し秋らしかったな。

そうか例えば。
自分が見てあげたのは、かたちと空気を捉えるという、彼女の崇高なひとり遊び。
ギンが見てくれたのは。
美しい男を捉えつつ、はじめての種類の、ああ言えない、とある感情に戸惑う…。

繁華街を歩くも落ち着かなくて、コーヒーチェーン店でぼんやり煙草をふかすことにした。
急に賑やかな店内に入るとぼおっとする。謝礼は何に使おう。
ギン。
彼女の額から貰ったのはきっと祝福だ。彼に会わなければ。
良い閃きだ。善は急げと、ふわふわした気分で誘い文句を打ち込んだ。

『お久しぶりです。近いうちに1杯と言うか20杯くらい、どうですか。お誕生日だから、その内の3杯くらいはご馳走できそうです。』 送信するとスマートフォンをカバンにしまい、コーヒーを一口。

ギンは少々不貞腐れていた。
イケると思ったんだけどなあ。
休日出勤は怠いがやはり平日よりずっと気が楽だ。手当なんて一軒入って飲んだら消えるけれど。

部活動の面倒見は午前で終わったので、昼食がてら街に出ていた。
夢に向かって必死なあの子。連絡来ねえなあ、飽きられちゃったかなあ、若いし。
いや結局ヤれねえから良いんだけどさ。
10の日がどうとかって話してくれたのは、忘れちゃったのかな。
もしや若い男の子と楽しくバースデーケーキ、なんて期待した俺が馬鹿でした、ハイごめんなさい。
恋人無しで過ごす誕生日も馬鹿にすることなかれ。学生時代からの友人と飲む約束があり、それはそれは楽しい時間だろう。
しかし。一度夢を見てしまった後だから、つまらないなと思う。
そうしてブルーになりかける彼の目前にタイミング良くクリームたっぷりのパンケーキが運ばれてきた。
忘れよう。
今は幸せのランチタイムである。1人微笑み、気取ってナイフとフォークを操った。

満腹満足。
ギンは口と手を拭きながら、ふと思い立った。
向こうから来ないならこちらから連絡すべきだ。何と言っても俺は大人なんだから。
甘い昼食は脳内に花を咲かせてくれる。
良いじゃないの、聞くだけ聞くだけ。カバンから取り出した小さな画面に浮かぶ幾つかの通知。
目を疑う。疑うも直ぐ返信をしたのは言うまでもない。

10月10日 「俺、ギンさんなら良いんだ。あの感じで、良い」
「勿体無い」
困ったような笑顔でかわされる。ちくしょう、もう俺は用済みか。
人の心を察するのが上手いと、ひしひし感じていた。
あの日、ホテルで逃げたからだ。夕焼け。もう永遠に土俵には戻れないのか。
じゃあ何故この日を承諾したんだ。

せめて俺の欲望をもう一度、見て欲しい。
「それ以外にも。嫌じゃなければまた撮りたいんだ。ギンさんを」
この先を口にするのが一番の難所だ。もう目を合わせられない。
ジョッキを持つ手が震える。親指以外を浮かせ、人差し指から順に持ち手を軽く叩く。

「できればヌードで」
耳が熱い。息が詰まる。
ギンは無言でジョッキを持ち上げた。喉の鳴る音がする。
面倒な若造と思うだろう。

コト、静かにジョッキが置かれる。
覗き込むようにそっとこちらに向く身体。
「その顔は狡い」
ジョッキで冷えた手の平が頬に当てられるのが気持ちよくて、己の熱を知った。
「受けることは受けるけどさ。超嬉しいよ。ただ、ちょっと。難しくなる場合もあるからさ。俺の我慢とか」
通じた。

「ギンさん、最高なんだ。見て」
自慢のポートフォリオを取り出した。大成功、と話したら目を白黒させてしまうかもしれないので今は我慢だ。
「えっ何これ。ちょっと、マジで何これ」
数ページめくっただけでもこの慌てよう。
「ちょっ、こら、これ出したってか!」
帰りにケーキ屋に寄って食べるかテイクアウトか、持ち帰るなら部屋に呼ぼうか。
「しっ、晋助、お前!」
お。
「良いね。俺もさん付け止めようかな」

11月11日 あの日の写真が載ったという美術誌を書店で一冊買って出る。
献本のおこぼれをくれると彼女は言ったが、何となく、店舗で手に取りたかったのだ。その場で開くのは気恥ずかしくて止めたが。

寂しいかな、高杉の受賞騒ぎは案外早く静まった。しかし今度は夢が現実としてのし掛かってくる。個展のコンセプト提出期限が迫っていた。
でも出来る。やりたいことが山ほどある、そう思っていた。

安全な室内と言えど、ページをめくる手は慎重になる。
これだ。息を呑む。
そこに現れた自分は別人のようで、おかしな話だが美しいと思ってしまった。
「ひやみらふぁ」
今夜は銀時の部屋だ。
2人の関係が定着してからは、本当の下の名前で呼び合っている。
細長いチョコ菓子を欲張って一気に何本も咥えているので、銀時の言葉はよく聞き取れない。

「なんて?」
ベッドにうつ伏せ眺めていた美術誌を置くと、背中からのしかかってくる身体。
「ん」
目前に突き出されたものに齧りついた。
ぼり、がりごり。少しくらいなら甘いものも悪くない。
頬を寄せ合っているから互いの音が煩くて吹き出しそうになる。
ごくりと飲み込み、その口を開いたと思うと銀時からは言葉が出てくる出てくる。

「厭味ったらしいわあ。これか、例の。色っぽく撮ってやるとか言っといて、何自分が良い感じに載っちゃってんの。あーもう、嫌な子だわあ。そっかそっか、銀さんには飽きちゃったってね。俺を撮るよりもモデルやってた方が良いんだろ。そんなもんですよね、若くて可愛いもんね。つうかどうすんだお前、実際ひたすら俺の写真でやってけるもんか。いや無理でしょお。読者っ、て言って良いのか知らないけどさあ、飽きるでしょ」
「…随分省略されてたんだな」
もっと口に詰め込んでやろうかと思って、やめた。

その代わりに唇をあてた。
「心配すんなよ」
良いんだ、お前は特別。
本当に大切なものを焼き付ける楽しさが分かったから、俺は進んでいける。
お前の隣で、色々やってみようと思うんだ。