目が合うと、下着を身に着けながらギンは頷く。
そこで股間に宛てがわれたタオルに気付き、情けなさで消え入りたくなった。
醒めた先こそ夢なら良かったのに。
彼の純粋な優しさとは理解するが、それにしても耐え難い羞恥。
俯き言葉を探していると頭を撫でられた。不思議と心地良い重みだった。
と、フロアから辰馬の笑い声が聞こえた気がした。
咄嗟に腕時計を覗くと終電の時間まであと10分である。
「ごめん、電車やばい」
ギンを押しのけ急いで服を着る。
今更だが、ここはスマホ類の使用、並びに腕時計の着用は禁止だった気がする。
見るとギンの手首にも時計が嵌ったままだ。知っている。自分の感覚で言うなら、ボーナスひと塊を叩くブランドだ。
今すぐゴミ箱に突っ込みたい気分だが、と、引っ掴んだタオルに途方に暮れた。
「貸して、大丈夫だから」
「悪い、ほんと、ごめん」
差し出される手に、素直に甘える事にする。
「来週も多分いるから。
俺ね、甘いモン大好きなの。スイーツ男子。
あとね、最近観た映画、原作ロングセラーのやつ。あれ超泣いた。でも本の方がやっぱ良いね。1人で観たけど。そうだな、あとどっちかって言うと山派」
彼の声を背中で聞きながら、最寄りの駅までの道順を脳内再生する。
一応頷いて見せているつもりだが、分かってくれるかどうか。
辰馬は。
良いか。 見当たらなきゃ勝手に帰るだろうし。
翌日の昼過ぎ、辰馬の社員寮がある駅で落ち合った。
秋晴れの空が爽やかすぎて昨夜の出来事が嘘みたいだ。
特に何をするでもなく、肩を並べ公園まで無言で歩く。
降りる駅が変わり、溜まり場がボロアパートから小奇麗な寮に変わっただけで、何年も手順は同じようなものだ。
こんな日もある。よくある。
「ムツ氏はどうだった」
「ほとんど一瞬やった…お恥ずかしい話ぜよ。鼻で笑われての」
小さく丸まる辰馬の背中をポンと叩く。
「ただ、言い訳ちゅうか、よお分からんがまた会おう言われたんよ。うふふ」
なんだ。
「お前ならやれると思ってた」
終わり良ければ全て。
元より俺に辰馬を笑う権利は無い。タオルは濡れてしまったんだから。
許してくれないギンが全て悪い、と主張させて貰おう。
喘ぎの途中で、したい、離してくれ頼む、と押した肩の感触を思い出した。それは熱くて滑らかな肌だった。
人間の記憶力は気まぐれだ。どうでも良い時に忘れたい事を思い出すんだから。
ああ良かった俺は言葉を無くしていなかった、と薄っすら苦笑もしたと思う。
「えっどうしよう、えっと、タオル敷こうか。本当に無理?行ってくる?」
戸惑った声を出しながらも落ち着いた対応に面食らった。
こんな場所だ。プレイとか何とかで日常茶飯事なのかもしれない。
当人としては情けなくて涙が出るが。
みっともなく縋るような顔だったであろう俺から何を汲んだのか、小さく笑った後に結局ギンは腰を揺すり続けた。
次第に目尻に熱いものを感じ、口も開きっぱなしで。本当にいま考えると、だが、やはり下からも出ていた。
「高杉には笑われるかと思うちょった」
うきうきした声で現実に引き戻される。
「おう。まだまだ俺ら、若手だしな」
「おん。ピチピチやから」
「今日はもう酒って気分じゃ無いよな。そうだなあ、風呂は?」
「磨こうかの。電車使うけんど、えいとこ、ウチの後輩から聞いたんよ」
出るのが随分と遅くなってしまった。彼は居るだろうか。
また件の店にやって来てしまった。
「君、先週ギンさんと一緒だった?」
フロア内を見渡すも姿の見えない彼の代わり、では決して無い、つもりだ。
ギンよりもう少し年上に見える男に声を掛けられた。
世の中、物好きは幾らでも。そこまで考えて自分を呪った。
何と恥ずかしい奴だ。
と言っても、ここにまたやってきた自分の思惑を辿ると、何も言えない。
「俺、元々そういうんじゃありませんよ、マジで」
それでもきっちりラベルを貼られても困るので、控え目に宣言しておく。
「ええ?残念。違うの?」
顰めっ面を飲み込み、手にしたジョッキを持ち上げ彼と軽く乾杯。
ジョッキを手渡してくれたのは、まだ学生の様な若い女性店員だった。
髪の色は暗め、はにかんだ笑顔が少々場違いで、それがなかなかに魅力的に見えた。
彼女がこの店で働き始めた経緯を想像しかけ、つまらなくなって止めた。
昨年、家業の手伝いをすると言って海辺の実家に帰ってしまった女を思い出したのだ。
絵描きの女だった。
好きだったが、 引き止められなかった。
これから新しい恋を始めるのは億劫だ。
思い出に浸る内に、乾杯した男に促されカウンターに座るしかなくなった。参ってしまう。
「シン君。こんなとこでもさ、マジで恋人探しても良いんだよ別に」
そうやってゴールインしたんだって。ほら、あの姉さん。
彼が指差す方向には、自分の直属の上司と同世代であろう女性が、先週の自分や辰馬のような「ご新規くん」に挟まれ笑っていた。
「楽しそう」
「ね。僕もさ、結構ガチになっちゃった子、いるんだ」
この男、普通にその辺にいそうだ。こんな所で出会わなかったら、他の支社で挨拶して、二次会のカラオケで笑い合ったかもしれない。
「お目当ての子とか、今来てるんですか」
「ん、そうね。行きますって掲示板に書き込みあったから来たんだけど、まだかなあ」
「良かった、いた」
唐突に後ろからギンが顔を出した。傍らに若い女。
女は俺の隣に座る男を認めると、素早く反対隣に座った。2人とも嬉しそうだ。
皆、ごく普通の人間だ。
各々が軽やかな恋を楽しんでいる光景は悪くない。
ここは愉快な、秘密の水底だ。
彼らを邪魔しないよう、ギンと連れ立ってぐるりのソファに移動する。
「むっちゃん、今日は来れないっぽいよ」
急に恥ずかしさを覚えた。
俺は。のこのこ何をしに来たというのだろう。
密かに狼狽える俺など構いもせず、ギンが言葉を続ける。
「また、してくれるの?」
急に唇の乾きが気になり舐めた。
「先にコレだけ」
いきなり手が伸ばされたので反射で姿勢を正してしまった。
何かと思えばネクタイの結び目を器用に解かれた。
しゅるりと外れるそれを折り畳んだギンの手は、そっと俺のシャツの胸ポケットに差し込まれる。
手の甲の骨ばった部分が胸を擦って、どきりとした。
「ふふ。じゃ、お先」
シャワー室を指差し、ギンは席を立つ。
自分が肩肘張り過ぎなのだろうか。
「すっかり仲良しじゃのお」
1人ビールを啜っていると、呑気な男の声。その声の主に肩を抱かれたムツの姿。
ほほう、お前らもすっかり、な。
「たまには良いよ」
言いながらムツはトランプカードを見せてくれた。店の備品らしい。
果たしてこの面子で盛り上がるのかと心配になったが杞憂だった。
ババ抜きを2ターン。すぐ終わった。2回とも辰馬が負けた。
仰け反って大げさに嘆いて見せる親友、それを笑う美しい女。
俺は楽しかった。
そこにギンが帰ってくる。
「むっちゃん」
軽い驚きの表情を見せるギンに、彼女はいたずらっ子の顔で小さく肩をすくめた。
気まずいながらも辰馬を見遣ると、にっかり歯を見せ笑い掛けてくる様子に安堵させられた。
ギンと交換で身体を洗いに立つ。
湯を浴びながら考えた。俺は楽しみに来たんだ。
今夜は聞こう、きちんと楽しめて、愉しませる方法を。
戻ると3人はまたゲームに興じていた。今度はギンが項垂れる番のようだ。
善良な奴ら。
俺に気付いた辰馬は大きな手を優雅に振ると、ムツを促しカウンターに向かう。そうして端の席に悠々と座るのだった。
3つある中で一番奥のプレイルームが、空室だ。
ベッドはダークブランの革張りだった。
「先週はスミマセンでした」
一度ベッド脇で立ったまま抱き合った後に囁いてみた。
返事だろうか、頬をそっと合わせてからギンが首を小さく傾げる。
「いいえぇ、またお会い出来て大変光栄です」
温情対応だ。優しいキスまで頂戴した。
「若輩者ですが。お任せいただける事、ございます?」
「良いよ気にしなくて。まだ」
まだ。
「それでは追い追い勉強させていただきます」
エスコートのつもりで彼の肩甲骨を引き寄せ、自らベッドに乗り上げる。役立たずとは分かっているが、それでも誠意は見せたかった。
「お仕事からは直で来たの?」
シャツのボタンを丁寧に外してくれる手。やっぱり白いな、と思った。
気恥ずかしい。先週など、どれだけ間抜けな顔を晒していたのか見当もつかない。
「ハハ、いやあ。スーツで来るの、何か嫌ですね。せめてネクタイくらい外してくれば良かった」
首筋に熱い唇。わざとなのか湿気が含まれていて、ぞくりとした。
「良いよ。ああ、そうだな、クールビズ終わって久しぶりにネクタイ締めるとさ、可愛くない?みんな」
上半身はされるがままだったので、せめてこっちは、とベルトは自分で外す。
そのあいだギンはVネックのセーターを脱ぎ、ボタンダウンを開けて腕を抜いた。
「何か分かります。久々に見ると何故かオシャレ感、出ますよ、ね」
「ね。わ、ゴメン。ありがとね。無理しなくて良いからね」
良かった間に合った。何かしなければ、とギンのベルトを外してやった。
「これ何です、可愛い」
中から現れた物に笑ってしまう。ピンク色をした綿生地の、苺柄のトランクス。
髪色は目立つが、一見では割と真っ当な男だ。まさか中にこんな秘密兵器を隠しているとは。
それを自分で下ろす表情は、意外にもはにかんでいた。
「勝負パンツですう」
脱いだそれを律儀に畳むと、照れた表情のままにじり寄ってくる。
秘密兵器の中身は、もちろん臨戦態勢だ。
いや自分で、と言う前にスラックスを下ろされる。
「どこの?」
「わかんな、普通の、っす」
ブランドは覚えていない。ボクサーが好きだから、触った感じが良かったから、取り敢えず黒無地で。そんなものだ。
と言うかパンツの上から触るの、上手い。
手の甲で下から数度撫で上げられて、もう支えが欲しい。目の前にある裸の肩にもたれると、渋いオレンジが香った。
双子をそっと握られ、びくりと背筋が伸びる。
「今日、敏感だね?」
塞いで貰わなければ漏れてしまう。
こっそり溜息を付き、こちらから唇を合わせた。
歯で傷付けてしまわぬようにそっと喰むと、唇のすぐ裏側の粘膜に舌を差し込まれた。
で、出来る男だ。
思えば自分と同等若しくはそれより大きい人間の舌など直に感じる機会は無かった訳で。
それは肉厚で、とても厭らしく感じた。
そのあいだ骨ばった中指を主として、前から割れ目の終わりまで丁寧なスライドが繰り返される。
どうも堪らなくなって顔を引いた。じゅぷ、と濡れた音を立てて舌同士が離れた。
「は、無理、はやく」
「シンちゃんさ、本当はSでしょ」
うつ伏せで、後ろを濡らして貰う最中。
「そりゃ男ですから」
「良いんだよ」との悪魔の甘い囁きに甘え、ベッドに敷いたバスタオルと自分の身体の間に手を差し入れ、モノを擦りながら。
「ホントは、俺もして貰うの好きなんだあ」
「ん、あ。俺も、って」
「いつかお願いしようかな」
「俺に出来ますか、ね」
それは大層気分が良さそうだ。この優しい男を満足気に組み敷く自分を想像して、楽しくなった。
「んあぁっ!」
「ちょっとお。いま何考えてたか分かる気がする」
咄嗟に口を覆うが、泣き所を的確な力加減で擽られ、喘ぐしか出来なくなった。
もう自分で慰める余裕も無く、両手はただタオルやベッドを掻いた。
自由になった股間は、今度はギンの手に包まれる。
「いっ」
跳ねた拍子に腰を持ち上げられ、ギンを迎え入れた。
背骨に舌を這わせられると辛い。
丁寧なペンキ塗りのように少しずつせり上がってくる湿り気。
ゆっくり抽送を繰り返され、あ、もっと、と言いかけて飲み込む。
と思うといきなりスピードが上がる。
「ぐ、っぁ」
その都度口を引き結んだが、数ターン繰り返されて、もう降参だ、と思った。
俺は泣いていた。
「ギン、ギブ、助け、て」
必死に言葉を探したが、囁きにしかならなかった。
「いっても、良い?」
股間が握り直されて、膝がガクガクする。
「もちろ、ん」
部屋の外で俺の声を聞いちまった奴が居たら、申し訳ない。
「あ、ふ、あっ。や、い、イイ。ギン。ん。っぐ、ぁ!」
後ろから頬を擦り寄せられ胸が温まるが、与えられる快楽は凶暴だった。
打ち付ける度に鳴る肌の音を聞きながら、これは不可抗力だが、俺はギンの白い手を汚した。
悦ばせるなんて、まだまだ先のステップだった。
「今日は漏らさなくて良かったね」
「えぐりやがりますね」
今度は俺が先、と逃げ込んだシャワー室からフロアに戻るとギンの嫌な笑い。
「別に。してくれても良かったんだけどなあ」
次は泣かせてやる。
「ギン、シャワー良いの」
「いま誰か入ったっぽくない?ゆっくりで良いや。ん、常時でも敬語やっと取れた?」
かあっと顔に熱を感じて目を逸らすと、カウンターにまだ辰馬とムツの姿があった。
顔を寄せ合い何事か話していると思うと、少し離れて辰馬が頭を掻きながら笑う。
彼らの後ろ姿を浮き立つ思いで見つめていると、丸いガラステーブルにフルーツパフェが置かれた。
ギンが頼んだらしい。
「スイーツ男子?」
これぞ?
クリームの頂点に鎮座するサクランボ。抑えられた照明の下でつやつや輝いて綺麗だ。
嬉しそうに頷いて見せると、ギンは早速スプーンでアイスクリームをすくう。
初めの一口の瞬間の嬉しそうな事。つい微笑ましい気分で見入ってしまった。
「お目当ては、探さなくて良いの?」
ソファから飛び上がりそうになった。
どう言えば良い。あんたと仲良くなりに来た、?
答えに窮し目線を遠くにやったが、銀髪がふわりと揺れ、こちらを向くのが分かった。
自分が馬鹿だった。
咄嗟にビロードから腰を浮かせるが、太ももを掴まれた。動きを止めざるを得なかった。
「期待すんだから、さ」
耳を疑いつつ、その目を恐る恐る覗き返す。
甘党の男だなんて面白い奴だ。
映画はスクリーンで観る事にこだわりがあるのか、俺はレンタルも好きだが。
あの邦題、男1人で入るのは勇気が要ったのでは。
憑き物が落ちたように、すとん、とソファに沈み直した。
あんたに聞きたい事がある。したい話が、意外とある。
「実は一目惚れって言って良いかもなんだけど」
やはり男同士のセックスで使う筋肉は未知数だ。実はもう怠くて仕方ない。
今この席に辰馬が居てくれたら良いのに。『すんませんねえ、この子シャイやき!』
「シンちゃんはさ、良いの」
「何が」
「長男?」
「そう」
親密になるには、家族関係は重要だった。昔した恋を思った。
「…」
「お盛んな妹が3人。どうにでもなる」
ギンの自信無さげな目。本当か、と問われている。落ちても良い恋なのか。
「そのさ、小姑ちゃん達さ、可愛い?」
「別に、普通。あんたには懐きそう」
「正直ずっと待ってたんだ」
「ふうん」
「この場所から連れ出してくれる奴」
「ロマンチストだよな」
ふっ、とギンが吹き出す。
「ねえ冷たいんじゃない。急に強気になった?化けの皮剥がれてない?いや良いんだけど、ぶっちゃけ理想的過ぎて震えるんだけど。
でさ。外でも会いたいと思える奴、なかなか居ないもんだよ」
ここはそういう場所だろう。そんな場所でも。
「でも、それを探すのも、本当は自由なんだな」
暫しの無言の後、膝上にギンの手の平が載せられた。
そうして俺達はそっと額を合わせた。
「あのさ、見つけたと思って良い?」
しかし口が回る男だ。まだ年齢を聞いていない。故郷は、今の仕事で楽しい時間は、子供の頃の夢は。
「俺はあんたと、外で会いたい」
察してくれよ。
今度は俺から唇に。
「蛙捕りが上手いな」
女の低い声は優しかった。
先程までのギンとのそれより距離を置いて、隣にムツが静かに座る。
おっ空いたかな、行こっかな、と身体を洗いに立つ彼を見送り、1人ぼおっとパフェの容器をつついていた所だ。
「自分で言っていただけだが、あいつは本当は臆病者らしい。疑うが。でも私は嬉しいよ。 明るい外でも遊んでやってくれ」
「あんた、辰馬と?」
「勿論」
季節外れの蛙を見付けた。
愛らしい黒い目、つやつやした黄緑の背中。
「ギャッ!」
「意外と苦手だよな。く、くくっ」
引き攣る銀時の表情に満足し、もといた草葉の陰にそっと帰してやる。
単にのんびり屋なのか、冬支度の忘れ物確認に出てきてしまった心配症か。
「晋助…止めてよね。銀さん繊細なんだから」
日に日に夜が延びるこの季節は、愛を深めるのに丁度いい。
俺達も帰ろう。真新しい、暖かな2人の寝床に。
俺にとっては、あの店こそ深い海だった。
銀時はその事を未だ知らない。