真夜中の踏切、通り過ぎる電車の向こうで静かに笑う大悪党。
いつにも増して様子がおかしかった。
着物のはだけ方なんて、色っぽいとかそれ所じゃない。全身泥だらけでズタボロだ。
こうして距離を置いて見ると、やはり一端の怖い男なんだと何故か納得して、哀しくなった。
辺りを見渡すも、追われている様子は無いが仲間も居ないようだった。
明滅する赤が嫌に似合っていて、電車が過ぎ去るあいだ目は釘付け。
どうも生身の彼が立っているように思えなくて、胸がざわざわした。
「命からがら?」
「お陰様でな」
僅かに勇気が必要だったが、ガタンゴトンという音が聞こえなくなるのを待って話しかけると、普通に返事があった。
待ちきれない想いで、上り始めた遮断棒をくぐった。足早にスクーターを押して彼の待つ向こう側に渡る。
静かになった周囲に、虫たちの歌声がよく響いていた。
「一体、何して来たんだ」
答えなんて聞きたく無いのに勝手に口が。俺の馬鹿。
冷たい肌をしやがって。うなじの少し上に手の平を当てて抱き寄せた。
引かれるまま素直に身体は寄りかかってくる。一丁前にまだ人間のようだ。
「ク…お前で良かったぜ」
ほんとにね。
近寄りすぎた顔を覗くと目の下に薄っすらと隈が出来ていた。
「酷ぇ顔」
首を傾けると、やっとまともに見つめ合えた。
ふ、と小さく弧を描く唇。カサつかせているのは珍しい。あーあ、包帯もグシャグシャだ。
「鬼さんどちらへ逃避行?」
「知るか」
ったく。
少々乱暴にヘルメットを被せてやった。
「…疲れた」
背中からぽつんと聞こえた。強く吹き出した風に流され、呟きは消えてゆく。
「俺なんか、毎度迷惑してんだからね」
互いの主張を言い合うだけ。
「自分のソレと俺の洞爺湖エクスカリバー、落とすなよお」
さっきの電車は今夜最後の一本だったのかも知れない。
線路沿いの道は静まり返っていた。
それにしても酷え格好。
「色男にますます磨きが掛かったようで」
「馬鹿言え、最悪だったんだぜ」
「職質されちゃった?お巡りさんに」
「てめえにゃ言えねえ程に情けねえ話なんだ、ちと出来ねえな」
あー…仕方ねえから聞かないどいてあげようか。
普通に会話できる様子から大丈夫だろうと踏み、当初の予定通り、目的地に向けスクーターを走らせる。
「…釣りでもするのか?小魚だって寝てるぜ」
静かな住宅街の外れにある小川の脇に停車し、エンジンを切る。
今夜は仕事だ。
高杉を促して一緒に草陰にしゃがみこんだ。
「しぃっ。ホラあそこ。あれ、電気付いてんの珍しいな。間違…いや合ってるわ」
「こんなドブから偵察か」
「ちょうど此処が死角なのよ」
渋々ながらも俺に合わせて声を潜めてくれる、流石だぜ相棒。
「どっかの社長さんからの依頼なの。取引先が最近怪しくて、夜逃げしないか見張れってさ」
「ハッ、下らねえ」
ちょっ、静かにしてくれる。
「庶民は庶民でなあ、意外と過激な日々なんだよ」
「楽しい仕事してるじゃねえか」
「まあね。ここだけの話、騙される方も悪いと思うよ。
見せてもらったけどさあ、明らかに怪しいサイトだったもん」
懐から取り出した双眼鏡を覗くも人影は掴めない。
「それ貸せ。…事務所に使ってるのはそのインチキ屋だけじゃねえだろ?
どの部屋も夜更かしだな。目当ては何階だ?」
民家に紛れ、のほほんと建つ五階建てビルのちょうど真ん中、三階。
そこに入っていると言う、天人資本の金属部品メーカー事務所を見張れと言うのが依頼だった。
「銀時」
もうすぐ終わるからね。しぃっ。
「…ありゃあ、俺の獲物だ」
へっ。
「鉄屑屋なんてもんじゃねえ、ありゃ武器商だ。
ウチの部下も下手な芝居に負けてな、追加サービスの一つや二つ、近々強請りに行くところだった。
不法入国の面倒も見てる奴らだから、そう簡単にはドロンもできねえ筈だ」
あ、そう。そうですか。へえ、ふうん。
「お前、斬っちゃうの」
いやまあどうでも良いんだけど。
そこまで悪い奴を相手にしている気もなかったから、本音を言ってしまうと、少々寝覚めが悪い。
「安心しろ、別に大した要所じゃねえ。ただ恋文でもありゃあ、ついでに伝えといてやるぜ。
クッ、優しくな」
「やるじゃん高杉」
俺の仕事は大成功も同然だ。
草むらに手を付き、自分のそれで、意外と間近にあった唇を探り当てた。
月夜の影に紛れてキッスだなんて素敵だろ?
高杉の顔から離れてにっこり笑いかけると、彼も片頬を歪ませて得意気に笑った。
じゃあもう、とっととウチ帰って抱き合おうか。
元々ズレていた包帯がゆっくりまたずり落ちてくる。
それの経緯を改めて聞いてやっても良い訳だしね。
吹き出しそうになるのをこらえて再び顔を寄せると、ず、と更に包帯が落ちる。
そうして高杉は面白いくらいに目隠しを被った。
「ダッセえな」
とうとう吹き出して、俺は強く抱き付く。世の皆さん、これがあの過激派ですよ。
「月が隠れ、たっ!」
笑いを含ませた声で何かカッコつけようとしたであろう台詞を言い終わらない内に、高杉の言葉は驚きに変わった。
目を開けると、さらさらと揺れる木々の黒い影の向こうで、真ん丸の月が輝いていた。
「よぉ、無事だな。地獄に戻って来ちまった」
「…なにそれ」
二人揃って小川の隅に転げ落ちたらしい。
意外と高さがあったようで、見上げる木が妙に大きく感じた。
「ク…ざまあねえな」
何だとお?
「ここ、さっき俺も落ちた所だ」
流石に絶句する。
「さっき此処に一人で落ちた時、俺を探すお前を見たぜ。ガキだった」
手に触れる草と土が柔らかい。
月光を受けて立つ背に近寄ろうと立ち上がる。よろけたがそれも一瞬の事だ。
腕を見るとかすり傷がいくつか出来ていたが、これはつまり無傷と言える。
「可笑しな話さ。
お前は手の平の中に虫を隠してチョロチョロ歩いてるんだ。
中から綺麗な音が漏れてる。怖がらないもんなんだな。
だが残念、俺はんなもんじゃ驚かねえ。
喜ばせたかったのか?違うよな。
お前の悪意なんてお見通しだぜ。
なあ、…本当に、んな事あったか?」
「超ありそうだけど…いや、でも無いんじゃない」
そこかしこから虫の音。その中に思い出を探したが、上手く見付からなかった。
「クク、だよな」
軽く顔を見合わせて苦笑。
自分の着物を見下ろすと高杉に負けず劣らずの泥だらけになっていた。
こんな展開で俺まで過激派だなんて。
お前が押した、いやお前が先に滑らせたのが悪い、と小突き合いながら緩い坂を登りスクーターへ戻る。
「今ウチに銀さん特製、激ウマ茄子の揚げ浸し残ってるけど」
「へぇ。そりゃ良い肴だな。
今夜は…そうだな、あっためてくれよ」
まあ何て図々しい野良猫くんかしら。しかし名案過ぎて否定できない。
そうか、もう熱燗が旨い時期か。
勿論その身体の温めも、お任せを。
ズタボロの男二人で申し訳なさを感じたが、それでもスクーターは勇敢に月夜を走り出す。
依頼主への報告としては、
今夜も夜逃げの様子は無し。少々怯えさせる事にはなるが良い外注先があるので試しに使っても構わないか…いやこれは駄目だ、言えない。
つまり、継続して見張りますのでご安心下さい。結局これだ。
もう人通りも無いのに律儀に止まれを示してくるから、仕方無しに信号で停止。
ガードレール脇の草むらからも、小さな歌声が聞こえる。
それで思い出した。
落ちた時、確かに俺も短い夢を見ていた。
ふんわり重ねた手の平の中から響く澄んだ歌声。
足元の小川を見下ろすと、響いてくるのは仲良しの少年の怒声。
頭のてっぺんには真ん丸の月が輝く。
いま浮かんでいるものより、もう少しだけ赤みがかっていた筈だ。