先週の内に街を歩いて目星を付けていたホテルに向かった。
駅に戻ると、待ち合わせた北口方面から商店街に入り、一つ目の角を右手に曲がる。
歩きながら、コンビニで買った物…俺はコーラ、ギンは新発売の茶、を飲んだ。
ドラッグストア、小さなラーメン屋、古ぼけた赤茶の壁のホテル。その居並びの堂々たるや、笑える物がある。
「撮らせて下さい」の大義名分のもとにはぴったりだが。

ドアを開けて部屋に入るとなるべく何でもない風に装ったが、ギンにもそう見えているかは微妙だ。
良いんだな。そっちとしては何もしなくて良いんだよな?どうにも腹の奥が落ち着かない。
実際、意識しているのは全くもって自分なのであった。

靴を脱いで備え付けのスリッパに履き替えると、おどけた様子でギンがベッドに寝転がる。
「こおんな感じ?」
何かポーズを取ろうとしてくれたのだろうか、しかし勢い余ってベッドヘッドに頭をぶつけ、様々なボタンの内の1つが押されて照明が落ちる。
「ぐおお!」
咄嗟に頭を抱えてベッド上で小さく丸まる姿に声を上げて笑ってしまった。

磨り硝子から差し込む夕陽で、部屋は気怠いオレンジ色に染まる。
「あ、良いですね、そのままでお願いします」
カメラバッグを漁り、急いで準備した。
「何、何が良いの?!」
まだ頭を抑える可哀想なギンはやや悲痛な声を上げた。

「ギンさんの身体、すげー綺麗だな」
思った事が素直に口をついて出てしまった。他意は無い。
子供の頃から俺には筋肉が付きにくい。鳥ささみとか、高タンパク物とか、よく食ったが。
彼の身体は白い皮膚が健康的につやつやしていた。バランス良く付いた筋肉がしなやかで本当に綺麗だと思ったのだ。

自分の呑気な発言に慌てても後の祭り。
そう言う種類のひとたちにとって、筋肉を褒められるのはとても嬉しい。そんな情報をぼんやりと思い出し赤面してしまう。
「いや、すみません。格好良いモデルさんに出会えて、俺、ほんと幸せっす」
咄嗟にカメラを構え直して早口に言葉を継いだが苦しすぎる。
どうか流してくれ、お願いだから。これじゃあ俺が変態じゃないか。
こんな如何にも若造な俺を、笑って許してくれ、る、よな?
レンズ越しの彼は、真っ直ぐこちらを見つめていた。先程までと変わらない。
大人にとっては、もう心底どうでも良い心の動きなのかもしれない。そりゃそうだ。気にしすぎてそれこそ恥ずかしいぞ俺。
ほっとするこちらの胸中を見透かすように、レンズ向こうの顔はにやりと笑った。
「ちょっ」
顔から湯気が出るようだ。

メモリカードにギンの体をたらふく喰わせて「休憩時間」を有意義に使い切る頃、外はすっかり夜だった。
賑わう通りに出て幾つか店を覗き、縦に長い居酒屋に入った。店内の照明は控えめだ。
「辛いの、好きなの?」
不意に尋ねられてどきりとする。いや、ありがたい。さっきから、何を話そうか考えていた。
モツ煮を2人で取り分けた自分の椀には確かにたっぷり七味を振っていた。ギンはそのまま。
「あんみつだなんて素敵過ぎる」
手持ち無沙汰でメニューを触っていると、横から覗き込んで来たギンが目を輝かせた。
「シメですか?」
「ううん、俺、甘党なの。これつまみに飲める」
「…マジすか」

「お仕事、何なんですか?」
「人材育成と研究職と人事と事務と…色々混ぜた感じ。
土日もちょいちょい潰れて手当もあって無いようなもんで、ぶっちゃけ超きついんだけど、結局すげー楽しい系。
毎日100人くらいと笑顔で挨拶すべきだけど俺は適当にしてる系」
「…分かっちゃったかも」
「ああいう掲示板使ってるの、やばいでしょ」
「ふ、言わないですよ。誕生日とかも適当に入れてます?」
「その辺、俺のは本物」
ふうん。
「ギンさんに人材育成、されたかったなあ」
「やめとけやめとけ、俺、超やる気ない育成課だから」

良い兄貴が出来たみたいだ。
嘘かも知れないが、「本当はね」と名字も教えて貰った。
ただどうしても敬称無しでは呼べない。
「春風くんってかもうハルくんで良い?俺もギンって呼んで欲しいな。あと敬語がイヤ」
そんな、フランク過ぎる。自分はどう呼んでもらっても構わないが、年上の人間に対してだなんて出来る気がしない。俺は意外とナイーブなのだ。

別れ際、ギンは「若い友達が出来て嬉しい」と言ってくれた。
友達。そうかそれで良いんだ。
俺も嬉しかった。

翌週、俺たちはまたホテルの同じ部屋にいた。
夏の夕方はいつまで経ってもうす青い。
浴室を覗くと、磨り硝子の向こうで点滅する信号がドロップみたいに見えた。何となく、ちょうど反対側の季節を思い出す。
今日は密かに本番用と呼んでいるフィルムカメラも連れて来た。

部屋に入ってから荷物を置くと、持っていたビニール包みを手渡す。
「坂田さんこれ、お土産。頑張ってくれるモデルさん、休憩時間にどうぞ」
「なあに?って言うかギンで良いって。止めてよ何か距離が。きなこもち?」
「…わらび餅。駅前で売ってたから。甘いもん好きなんだろう」
「ええー、好きだけど、どしたよ急に。いや、うん。ありがとう。しかしよく売ってたな」
「何で?まだ夕方じゃん」
「季節ものなんだよ」
ふうん。

1コマ1コマ慎重にシャッターを切ったつもりが、あっという間にフィルムは無くなった。
ギンの表情と身体と、窓からの光。先の一枚で納得した筈だったのに、気付くともう次の瞬間の美しさを見てしまう。
それを知覚してしまう事に、自分自身がげんなりもする。
仕方ないな、逃して後悔する方がずっと辛いんだよな。神経を構えて機材を持ち直し、また息を詰めて数値を調整して。
胸の奥で苦笑して、心に身体を従わせるのだ。
手持ち分を使い切る頃、俺はすっかり疲れていた。
撮影済みのフィルムが光漏れしてしまわないように、正しく巻き終わりの端が止まっているか1本ずつ几帳面に確認していく。
そんな俺に対し、ギンは後ろ首や背中をぽりぽり掻きながら「へえー」とのんびり物見をしていた。

カメラバッグに機材を収めて留め具で封印。
「…完璧?」
待たせてしまったようだ。
はい、と顔を上げると裸のままのギンがベッドから身を起こすところだった。
自分の腕時計を見ると、あと小一時間ならまだフリータイムの範囲内だ。
「お待たせでした。せっかくだからシャワー浴びて帰りますか。坂田さん、お先にどうぞ」
満足感に胸を膨らませ、上機嫌で話しかける。
「暑かったもんね…。うん、せっかくだから、ね」

実は、件のサイトのプロフィールで見たギンの誕生日が気に掛かっていた。俺は怖いからデタラメにした入力欄だ。
ちょうど自分の日と2ヶ月違うから覚えやすかったのだ。
写真は、なかなか良いものが撮れたと思う。
これから焼き上げるものを、見合い写真にでも使えば、とからかい半分でプレゼントしてやろうかと閃いた。
彼にとって報酬になるかは微妙だが、快く付き合ってくれるギンである。作品そのものをフルセットで進呈するのは彼の善意に相応しい礼儀に思えた。
そりゃ本人が欲しがる物をやるのが1番だ。だが良くも悪くも、俺は彼よりも若僧である。
春に安く10箱も買い溜めた印画紙が、残り3箱になっていた。あれが尽きる前に焼き終えられるだろうか。
おまけに最高の仕上がりで2セット。
なかなか大変な作業になるだろうが、不思議だ、腕が鳴るぜと口笛でも吹いてしまいそうな高揚感があった。
フィルム現像はここぞという時のプロラボに持ち込もう。

カメラバッグを撫でながらスマホでラボの営業時間を確認し終わる頃、湿って大人しくなった頭のギンが浴室から戻ってきた。
何故かまだパンツ一枚でバスタオルを肩に掛けたまま。
「ちょっと、晒し過ぎですよ勿体無い」
彼の返事は無い。空気がほんの少しおかしい。
「ハルくん、ちょっとだけ、お願い」
正面から包み込まれて固まった。互いの首の肌が僅かに擦れ合い、ギンの熱い体温を感じた。

「ちょっギンさん、ハハ、無理っすよ」
笑って誤魔化す声が震えてしまう。
「ねえ、本当にタダで出来ると思った。そんな訳ないよ、俺のモデル料、高いよ」
声がやさしいから、と絆される俺も俺。
俺みたいな恥ずかしい若造でも良いんだろうか、下手だなとか馬鹿にされたら嫌だ、でも、こんな経験できるのもなかなか…。
胸の高鳴りと流れだす冷や汗とは対照的に、いやどちらも熱心に働いているんだから総動員だ、頭も一瞬で目まぐるしく動いた。
やっぱり。
「ほ、ほ、いくらギンさんがイケメンでも、男は掘れないっす俺!」
「良いよ、俺がするから」

驚いた。だってそうして欲しいからあのサイトを使うんだろう。
無理にしてやらなくても良いのか?
「へ…」
「だいじょぶ、怖くないよ」
いや、いやいやいやいや!
「良いですって!マジで汗かいたのと勿体無いからで、俺もシャワー浴びて来ます。
他意はないですよ!ふ、服着てて下さいよ!」
急いで浴室に逃げ込むと、ギンは追っては来なかった。
シャワーを終え服を着てから恐る恐る部屋を覗くと、きちんと帰り支度をしたギンがベッドに寝転んで文庫本を読んでいた。
彼はちらとこちらを見た後、両手を上げて顔を枕にバウンドさせてからまた俺と目を合わせた。
「ごめんなさいでした。ギンさんちょっとショックだけど、今後も仲良くして欲しいな」
「だ、大丈夫っすよね」
「はい。無理やり変なこと、絶対しません」
乾いた筈なのに銀髪がしょんぼりして見える。ごそごそと姿勢を変えてギンは体育座りになった。
「だからさあ、取り敢えず甘いもの食べたい」
ああ、わらび餅が… 「もっと」
ギンの目線を追うとゴミ箱。の中に空になったパック。

駅の反対側に出ると、随分人が増えていた。
「ここが良い」
周囲に甘い香りを漂わせるクレープ屋の前でギンは立ち止まる。店内を指差す姿が子供みたいだった。
一階は持ち帰り客用、二階は喫茶フロア。奥の階段の手すりが飴色につやつやしていて良い感じ。
コーヒーを注文するとレジの女の子に「単品で宜しいですか」と確認された。
「ここに来てスイーツを頼まないなんて」
席に着くと、ギンからはあからさまに非難の顔を向けられた。
気にする事なかれ、俺は店の雰囲気で満足だ。擦り切れてはいるが座り心地の良い籐の椅子、穏やかに会話する他の客。
「良いんですって。俺、ここ好きっす」
「なら良いけど…」
申し訳程度にまた俺を見た後、嬉しそうにギンはクリームと苺たっぷりのクレープに齧り付いた。
手品みたいにあっという間に食べ終え、セットのコーヒーを啜るギンは、また俺を心配してくれる。
「腹減らない訳。メシ行くか」
それも良いが。
「強いて言うなら、ビアですね」
「おっ。行こ行こ」
ぱっと嬉しそうな顔をして、ギンは立ち上がった。

それから暫く、ほとんど毎日、学校の暗室に通った。バイトが無い日なんかは朝から晩まで学校に詰めた。
これで良し。
自分史上最高のプレミアム焼きラスト1枚を眺めて作業台に突っ伏したのは、8月最後の朝陽が登る頃だった。

それらを部屋に持ち帰り、丁寧に丁寧に黒い布貼りの冊子に収めていく。
粗めに焼き上げたギンの身体が台紙に収まる度に、その筋肉の感触を想像した。
目と鼻の先にあったホテルでの時間よりも、いま何故かその形が瞼にくっきり浮かんでくる。
空気に溶け出す体温、ホテルの石鹸の香り、白い肌の向こうに広がる筋肉。

こうして、自分で言うのも照れ臭いが、いやそれにしても美しい双子のポートフォリオが出来上がった。
現物は彼の誕生日までのお楽しみだが、完成したと早く彼に伝えたかった。
こんな写真集が見たかった。
この世の誰よりも自分が欲しかった一冊が、出来上がった。

9月10日 我慢できずに手を伸ばした自分を呪いたかった。
華奢な身体つきをしている癖に、頼りがいのある動きで機材を操る姿が何とも魅力的だったのだ。
また誘ってくれますように、若しくは誘っても良いサインをプリーズ。こっそり願いながらの寄り道の提案を受けてくれて本当に嬉しかった。
あの日のクレープは何時にも増して甘かった。
遊ぼうよ、後輩と飲むんだけど混ざらない、来週は?
あの手この手で誘うが「俺の超大作が上がるまであと30%」「まだ遊べぬです」等と頑として良い返事は来ない。
返事自体はきっちり来るから完全シャットアウトではない筈だが。俺はモヤモヤしていた。

悲しくなるほど何もない平和な土曜の昼前、枕元のスマホを見るとハルからのメッセージが入っていた。
「完成。もし暇なら今夜飲みましょう!」

夜までなんて待ちきれず、最初に会った場所で、ギリギリ飲み屋が開き始める時間に待ち合わせ。
今日は沖縄料理屋のカウンターで、まずはオリオンビールで超大作完成の乾杯。
てっきり学校の課題にでも使うのかと思っていたが、よくよく聞くと彼はもっと大きな物を狙っていた。
そちら方面には詳しくないが、その賞でのし上がった写真家を教えて貰うと俺でも見聞きした事がある名前や作品がいくつかあった。
それに俺の身体を出すというから、文字通り泡を吹いてしまった。

「えっ本当に?あれ使うの?パーになる0が多すぎでしょ」
「嬉し過ぎて禿げそうって事ですね」
禿げ?…違うわ!
「パーが0になる話じゃ無いわ!
何か知らないけどさあ、薬液とか紙代とか、色々かかるんだろう?
俺でやっちゃったらカネ無駄にし過ぎだって」
と自分で言うと悲しい。
「0ってさ、多いとめでたいだろう」
あれ、面白くなかったかな。微妙過ぎて慰めてくれてるの…。
「めでたいか?8の方が良いもんだと」
「8な、それこそ俺の誕生日は8のじゅうですよ。サイトのは適当。
ギンさんの誕生日じゅうじゅうでしょう。
良いじゃん、賞の締め切りも今日、じゅう、だぜ」
随分得意げだ。本人は気付いていないだろうが、口調も随分砕けてきて可愛い。
「ええー…」
そうかなあ、まあ俺としては減るもんでもないけど。

「だから、って言うか、良いんだよ。
良いのが出来たんだって。
俺、ギンさん撮るの好きなんだ。良いだろ、超オトコマエだぜ。出させて下さいよ」
俺の誕生日を知っていた事も驚きだが、まさか賞に出すなんて、今日が締切だったなんて。

「取り敢えず見せてよ」
「ごめん、もう包んじまった。きっと賞金付きで戻ってくるから、その時に」
「そんなあ…準備は出来てるの?どっかに持ち込みするの?」
「いや、大丈夫。郵便局の夜間窓口に行くよ」
「そんなんあるんだ、ああ、あるか。へー」
「良いよな」
「どこ?今度から俺も何かあったらそこ使おうかな。つうか一緒に行っちゃダメ?
行こう、行こうぜ。願掛けしようよ、何たってモデルが一緒って効果ありそうだろ」
「良いなそれ。でも結構駅から歩くから俺だけで行くよ」
「…何か渋ってない?」
「ごめん、ギンさんごめん。昨夜もう出したんだ」
歯を見せて笑う顔は、無邪気な少年だった。

「あのさあ」
並んで帰り道を歩いていると低い声。初めて聞く、棘がある様な。
ビクビクしながら、冷静に聞こえてくれます様にと願いながら、出来るだけ優しい声で、なあに、と返した。
「俺、晋助って言うんだ。本名。タカスギシンスケ」
へ、へええ。それは春風より勇ましいかも知れない。
「そう、なんだ…」
今後どこかで会っても、知らん顔しろって?涙が出そう。
「じゃ、来週とか?
都合良い日、また教えてよ、ギン。
さよなら」
へっ。度肝を抜かれて彼と目を合わせた。口を開けてみたが言葉は何も出てこない。
ハルもといシンスケくんは、そんな俺にぎこちなく笑った。
「ギン。またな」

シンスケの字はどんなだろう。
青になった信号を走って渡る彼は、もう振り返らなかった。
遠くなっていくうなじを見つめ、俺は暫く立ち尽くしていた。