程よい実入りがあったので今夜は一杯、一杯だけね。仕事帰り、ちょっと浮かれてかぶき町を歩く。
店先の「お疲れ様セット1000円」の看板に釣られ逡巡していると、聞き慣れた甘くて低い声に呼び掛けられた。
「銀時?」
振り向けば愛しい隻眼の色男が笑っている。
包帯無しで紺の木綿浴衣、首元から白い襟が覗く。
これじゃあ俺だって分からない。見事に紛れるもんだ。

「一緒に、ど?」
「いや、先約がな…」
くいと手でエア猪口を傾けて見せると、あっさり断られてしまった。少なからず、いや正直かなりのショックを受けた。
この街に居るイコール銀さんに会いに来てくれたものとばかり。
ちぇ、良いさ良いさ、それじゃあな。萎む気持ちを悟られないよう、彼に背を向ける。
すると意外にも嬉しい言葉が追ってきた。
「な。俺の用足し、お前も来いよ」

しかし変な会合に連れ出されるんじゃないだろうな。
怖気づいたが好奇心が勝った。短刀くらいは忍ばせているのだろうが、彼の腰にはいつもの獲物が無い。それなら良いかと大人しく付いて行く。
客引きの声とネオンの光を抜け、かぶき町の賑わいから遠ざかるように歩いた。静かな道が続いて次の街との真ん中に差し掛かる頃、小さなうどん屋に着いた。
周囲にはぽつりぽつりと感じのいい飲み屋に明かりが灯っている。
そして漂ってくる美味しそうな出汁の香り。
とんとんとん。リズミカルな包丁の音が響いていた。

通りに面した作業台はガラス張りで、中ではうどんのおやじと呼ぶにはまだ早い男が生地を切っている。
店内から染み出すオレンジの光が柔らかい。良い店じゃねえか。
「よ」
店主だろうか、うどん切りの男に軽く会釈をし、高杉は当たり前のように暖簾をくぐって行った。
え、待ってよ、常連さんかよ。

面食らったが、一応倣って店主(だよな?)に会釈をしてみた。くしゃりとした笑顔が返される。
高杉の後を追って敷居をまたぐと席は立ち食いのカウンターだけのようだ。
我が万事屋の玄関から応接間までの廊下くらいの奥行きだろうか。大半が仕事帰りらしきサラリーマン、学生風の若い男がちらほら、カップルが1組。それで席は殆んど埋まっていた。

「あの店主な、昔の連れ」
さっさと奥の壁際を陣取り、早く来いと嬉しそうに手招きをする高杉の隣に立つ。
テーブルにもたれかかると、いきなり耳を疑う事を得意そうに囁いてきた。

…ハァ? 聞き返そうとすると、うどんを切っていた男(店主で良いんだな?)が人懐こい笑顔で水を持って来た。
「総督まいど。どうも、お世話になってます、坂田さん」
なんだ。連れって…隊の、ね。
「あつひや2つ」
短く高杉が何か注文した。2つと言うことは俺もそれ?つうか今何て言った?聞き慣れないから、すかしたイケメンが使いやがる通な隠語かと思っちゃうよね。
しかしよく聞くと、単に熱い麺を冷たい出汁に入れてくれ、の意味らしい。

「総督。新作の梅おろし、人気ですけど」
店主が親切に紹介してくれるも、興味は無さそうだ。隠しちゃいるが俺には分かる。幾つになっても好き嫌いの多い男だ。
「…夏らしくて良いな。それさ、良い女がいたらサービスしてやれよ、な。俺は普通が良いんだよ。お前の、普通の味が良い」
何言ってんだこいつ。ぼふ、とケツを手の平で叩くと無言で睨まれた。

「隊の、って昔?いま?」
「昔の、だな。故郷が讃岐でよ、店持ってる親戚んとこで修行してたんだと。話聞いて、まず無事だったで嬉しいだろう、それがこっちで店出すって聞いて祝いに来てみりゃ、これが旨くてな」

へえ…。高杉はまず食より酒だし、少し暑くなると更に食が細くなる。
うどん、ねえ。うどんが旨いって言うか「うどんなら食べられる」ってことなんじゃないのお? かつての仲間とは言え嬉しそうに他所の男を褒められるつまらなさも相まって、俺はまだまだ疑いモードだ。

カウンターの中では若い店員がザルで麺の湯切り中である。あれ、俺たちのだと良いな。
何処からかカタカタと小さな金属音がする。何だと思えば、テーブルの隅に伏せられた灰皿の中からだ。
横の高杉も、灰皿を見つめていた。
手を伸ばしてそっと持ち上げると、何と中からころんとカナブンが現れた。
ブドウひと粒くらいはある。店の灯りに照らされて緑色の背中が艶めいていた。
顔を見合わせ、2人でぷっと吹き出した。
と、カナブンは存外静かにテーブルから飛び立ち、見事に暖簾をくぐって出て行った。
途中から見ていたのか、湯切りの店員と目が合う。
前の客の仕業だろうか。
堪え切れず、今度は3人で笑った。

「はい、お待ちい」
またもや素敵な笑顔で現れる店主とうどん。澄んだ琥珀色の出汁がきらりと光る。
それとは別皿で、彼は得意気に小盛りの鶏天を2つの丼ぶりの間に置いてくれた。
流石にこれは期待せざるを得ない。

一段高いカウンターにはセルフサービスのすりおろししょうが、天かす。俺はどちらもさっくりと匙でひとすくいずつ。高杉は何も入れなかった。
2人並んで箸を割り、「いただきます」と手を合わせた。
うどんを数本すくってすする。
これは。
本当に旨い。
澄んだ汁が、って出汁か、一口飲むと舌の奥にきゅんとくる。

隣を見ると、高杉は無言でうどんを啜っている。こんなに勢い良くものを食べる奴だったろうか。とにかく無心で食べている。
すする、咀嚼、汁を飲む。丼ぶりを置く。また汁。
目線は丼ぶりから離れず、良くても時折ぼおっと壁を見つめるのみ。
すする、汁。また汁。鶏天さくり。さく、もぐ、もぐもぐ、もぐ。汁。
って俺の分の鶏天残しとけよ。慌てて皿からひとかけ取って頬張ると、胡椒の効いた肉汁がじんわり染み出してこれまた美味だった。

あつひや、ね。成る程これは猫舌男が喜ぶ訳だ。もっと暑くなればひやひや一択かな。
麺をすくう度に、その熱さが徐々に出汁の涼に馴染んでいく。何だろうこの感じ、何かに似ている。
幸せそうに目を細めてうどんをすする高杉を盗み見た。汁を飲もうと口を丼ぶりに付けるところだ。
ごくり。喉仏がマッサージ機みたいに密やかに動いた。
分かった、サウナの後の水風呂。
ゆでダコになった後、冷たい水の中に意を決して肩までざぶりと浸かる瞬間。音こそしないが、ぷしゅう、と体の中から余分な熱が抜けてどんどん健康になるような、あの感覚。
うどんって面白いなあ。
「なあ?」
背中をぽんと叩くと、合間に水を口に含むところだった高杉は小さくむせた。

どうしても見てしまう隣の男。
嘘みたいにいよいよ丼ぶりしか見ない。それも目を開けている間のことで、時々うっとりと閉じてしまう。
本当にここのうどん、好きなんだなあ。微笑ましく思った。

高杉の睫毛をぼんやり見ていると、包丁の音が止んでいると気付いた。
すぐ茹でるストックが溜まったのか?作業台の方に首を傾けると、あの店主が満足そうに腕組みをして高杉を見ている。
俺に気付くと彼はウインクして肩をすくめ、また作業に戻っていった。
そりゃあ嬉しいよな。
かつての大将が、自分の自慢の料理を旨そうに食べている。
こちらに向いた彼の背に心なしか一層やる気が溢れるようだった。

俺もまた自分の丼ぶりに箸をつける。
うん、ちょっと不揃いで細めの麺がつるりと舌にやさしい。
これは本当に旨い。汁。旨い。そしてまた一口、とすぐ次を飲みたくなってしまう。

そうして、あっという間に丼ぶりの中は空になった。
隣の丼ぶりを見るとこちらも空だ。
「ふぅ」
満足気な横顔が、茹でたてのうどんみたいに上気していた。

心からのごちそうさまを伝えて店を出る。
俺たちと入れ替わりにまた新しい客が入って来た。ちょうど飲んだ帰りのシメに寄る客だろうか、まだまだ店にとっては良い時間帯のようだった。
良い仕事する奴だなあ。しかしあまり記憶にない顔だ。
「突然2人で行ってもあんまり驚いてなかったね」
「話してるからな」
「何を?銀さんとラブラブって?」
「相変わらず馬鹿だ、って」
俯いた頬は、あつひやか?相変わらず嘘が下手だ。

「もう一軒行こうよ」
俺は楽しくなった。
いい夜だ。いつだって銀さんは粋に夜を楽しむ男だが、それにしたって良い夜だ。
高杉を小突いて歩き出そうとしたら、ぐいと肩を引かれた。俺はつんのめるように立ち止まる。
「あんだよ。どこ?どこに行きたいの?」

「先約が。あるって言ったろう」
とす、と拳を軽く右胸に当てられ、隻眼が覗き込んでくる。
…ん? 「先約。ここだろうが」
くそ。
俺のハートは熱い出汁の中にぶっこまれた。
熱い麺が熱い汁に入るということだから、ええと、あつあつうどんって訳ね。
なあんて。