屋敷から歩いて10分ほどの場所にその小さな沼はあった。
高杉はこっそり心の中でふしぎ沼と呼んでいたが、実際には沼なのか池なのか。
どこから流れ着くのかいつでも得体の知れない水がたたえられている。一種の不気味さを保ちながら、それでも水は魅力的に輝いて見えた。
季節に合わせ様々な草花が生い茂る、ひっそりと美しい場所だ。

雨の多くなる季節のこと。
珍しく赤みがかった様な満月の夜、我慢できずに部屋を抜け出すと、カエルたちの歌声が賑やかに響くふしぎ沼のほとりで桂が笑っていた。
来ると思った、と。
桂は何でもお見通しだ。
その白い手には小さな風呂敷包み。高杉がずっと側まで歩み寄るのを待って、にこにこと結び目を解いて中身を見せてくれた。覗き込むと、漆塗りの正方形の重箱の中に見事なみたらし団子が並んでいた。

お前、団子も作れるのか。
素直に驚きうっとりと桂の手元を見つめた。桂は得意そうだ。
2人で沼の淵の草むらに座り月見をした。と言っても月見とはこれで良いのだろうか。互いに口に出さぬまま桂の手作り団子を頬張り、ぼうっと空を見上げる。
この沼の真ん中に小舟を浮かべて2人で寝そべったらどんなに良いだろう。

高杉は隣に座る一つか二つしか年の違わない少年に内心敬意を抱いている。
伝説の侍や、鬼を退治するような昔話の主人公に憧れる気持ちと似ているかも知れない。
だから、時々事実を思い出す瞬間は本当に不思議な気持ちになるのだ。
桂はあの広い屋敷に朝も夜も1人きり。俺の兄ではないし母でもない。まだほんの子供なのだ。
こっそり隣を見遣ると、月を見上げる横顔が常よりも更に白く儚げに見えた。

いつか立派な侍になって小舟を買い、ここに浮かべて桂を乗せてやろうと、ふと思った。
自分の身の辛さを忘れるかのように、己を可愛がってくれるこの兄のような少年を労ってやりたい、と心底思った。
赤い花で母を労う日があるなら、俺は勝手に桂の日を作って祝ってやろう。
彼には何の花が似合うだろうか…。色はきっと白だ。どことなく真っ直ぐな花が良い。

沼の向こう岸に目をやると、月光の小さな欠片みたいに白菖蒲が咲いていた。
清潔に気高く咲く花と、真っ直ぐ伸びる少し硬そうな葉。
あれだ、桂の花。あれにしよう。
桂の日には白菖蒲う。花屋の親爺が歌うように客を呼ぶ姿を想像して、ぷっと笑ってしまった。桂が訝しげに首を傾げ、顔を向けてくる。
どうした、俺の力作だからな、ほっぺが落ちるだろうが。
言いながら、顔に団子のたれでも付いていると思ったのか頬をこする様子に重ねて笑った。

桂の誕生日はもうすぐだ。当日は早起きして花を失敬しに来よう。
子どもの俺に出来ることはそれくらい。
いつか必ず、山ほどの白菖蒲で飾った小舟で一等良い酒を飲ませてやるんだ。