手にはマガジン、長袖の水色のシャツ、指先からは甘い香り。
肌を見ると意外と若い男、もしかしたら20代。
朝一の講義のために大学に向かう途中、高杉はラッシュで混み合う電車の中で痴漢に遭った。
一番の驚きは、よく高杉がターゲットに適していると分かった点だ。
男ばかり狙うタイプだろうか。
もしターゲットにされたのが全くその気がない奴だったら、その哀れな被害者の戸惑いを想像すると可哀相で仕方ない、と考えて気を紛らわせた。
何故続けやがった。
イケると思われる要因をどこで判断されたのか。
どこで拒否すれば良かったのか。
苛つきと冷や汗。
正直、かなりショックだった。
1車両分の端、連結部分。
向こうの車両に押し込まれた人たちをぼんやり見つめながら、高杉も大人しく詰め込まれていた。
いつも通り、周りに迷惑をかける事なく特に妙な動きもせず。
満員電車にはかなり適した姿勢だったと思う。
押されるがままに、窓に取り付けられた鉄製の手すりに体を押し付けていたら横から手が伸びてきたのだった。
右から左から、停車する度に人びとは圧縮されていく訳だから変だと思わなかった。
あと3駅。よろけたりしないように出来るだけ真っ直ぐ立って、大人しく圧縮されていれば良いだけ。
押されて流されて来たであろう誰かの手は、時折こっそり息をついて上下する高杉の体が凹んだ拍子に、腹と手すりとの間にずるずると潜り込んでしまった。
手すりやつり革にこだわらない方が実は楽だぜ。
足の力と言うかバランス感覚も鍛えられる…から俺は満員電車のお陰でスノボが上手くなった、と高杉は信じている。
教えてあげたいが、誰もが必死なこの密閉空間の中では仕方ない。
恐らくこの人は、必ず何かに掴まっておきたい派なのだ。そんな所に手があったら腹で潰してしまう。少しでも体をずらしてやりたいがそんな余裕もなく、電車の揺れで強く後ろから押されて更に動けなくなった。
手はもぞもぞと不満を訴えてくる。
手すりを頑として離さないつもりの様だ。そんな事言われても仕方ないじゃないか。諦めてそこから腕を抜いてくれ…。再度息をつくと、手は小さくグーパーを始めた。指が腹をくすぐり一瞬震えてしまって恥である。
俺は知らねぇからな。高杉は窓に額を押し付けて目を閉じた。
イヤホンから流れるラジオに耳を傾ける。
「昨日ほど暑くなりません。爽やかな晴れ間が気持ち良いですが夜は冷えますので上着を忘れずに…」
しまった、起きたら窓の外は爽やかな水色だったから、半袖シャツで出てきてしまった。
小さく深呼吸。電車が揺れてまた後ろから圧。手が動く。
流石に少し変だとは思った。
退け、といった攻撃的な意思を感じない動き。
掌を高杉の体側に返し、さわりと肋骨を撫でてきた。
…ように感じたが、ここで反応してしまうと本当に恥だ。こんなにぎゅうぎゅうなんだから。
勘弁してくれよ。
再び目を閉じると、更に1本、高杉の顔の真横に手が増えた。手の甲を窓に当てているから小指が頬をかする。
その小指から甘い香り。
カスタード?プリン?香水ではない気がした。
顔を上げればきっと自分も手の主も、窓に顔が映っているだろう。こわくて確認は出来なかった。
腹をくすぐる手は少し登って高杉の胸元へ移動し、粒を見つけて器用に摘んでくる。背筋が震えて、だめだった。
2つの手は、どちらも高杉の右側からやってきているのは間違いない。男をターゲットにするのにわざわざタッグを組んでというのも考えにくいから、1人の人間が両手を使っているんだろうが、その器用さには恐れ入る。
あと2駅になると、甘い指はどんどん大胆になって、小指だけではなく5本の指を使って顎や唇を擽ってきた。
胸元に置かれた方の手は、ペースはそのままだったが動きの種類を変え、粒を撫でたり、押しつぶしたり、つねったりし続けた。
ショックを感じながらも、手の感触を思い出してしまう自分が浅ましい。
今、高杉は駅構内トイレの個室に座っていた。
男子トイレで個室に入る時、一瞬周りの目を気にする自分に真っ只中の青臭さを自覚しながら、それでも手の主にとって何がお気に召したのだろうと思った。
最終駅に着くまでの間、いよいよ甘い手は大胆に唇を弄った。
人差し指が強く下唇をなぞり、口の中に突き入れられそうだった。
必死に首を振って拒否すると、やっと手は離れていった。
胸元の手もいつの間にか消えている。
恐る恐る窓伝いに視線を右にずらすと、木曜発売の週刊少年誌を持った手が素早く去って行くところだった。
満員電車が解放され「安全な」人混みの中に残されて初めて、黒く冷たい水を浴びせられた様なショックを受けている事と、下半身が酷く興奮している事に気付いたのだ。
胸を触る手も直接的でいやらしかったが、それよりずっと強く、唇をなぞられる感覚が腰に響いた。
甘い香りの手。
何故俺なんだ。見抜かれた。
前の女の子と別れて3ヶ月。
高杉は最近、興味本位で始めた、後ろの穴を使ったひとり遊びに夢中だった。
きちんとしたローションは学生にとっては大いに値が張る。グーグル先生から、ワセリンや医療用ゼリー、昔ながらのミントバームを代用することを教えて貰い、明日は帰りに薬局に寄って見繕おうとわくわくして眠ったのが昨夜である。
もともと素質があったのか、高杉が1人遊びでしっかり楽しめるようになるのは早かった。
そちらを覚えると最終的に男を求める体になってしまうと言うが。
高杉個人に関して言うと、実際その通りになってしまった。
もっと太いもので、人肌に突いて欲しい。
腰を強く掴んで引き上げて。
手の主に何処からか自分の若い好奇心を見られていたのでは、とぞっとする。
悔しい、恥、苛立ち。一緒くたになって情けなくも涙が出そうだったが、結局トイレの個室の中でひとり、抜いた。
パンツを下ろすと透明な液で湿っていた。
息を整えて個室を出て手を入念に洗う。まだ講義には間に合うとホームの時計を確認してベンチにへたり込んだ。ため息ばかりだ。
ふいに隣に甘い香りと人の気配を感じた。さっきの甘さじゃない。黒い瓶の、男物の香水。
「高杉クン?」
大学敷地内の喫煙所で1度見た銀髪だった。
高杉クン?桂の幼なじみなんでしょ。そのレジュメ。その授業、俺も取ってるよ。先生、面白いよね。
社交辞令だけだったが、のんびりとしたテンポと、恐らく誰を前にしても自分の姿勢を貫くであろう雰囲気が好ましい男の子だった。
仲良くなりたいと思ったが、彼自身はタバコを吸わず喫煙者の友人を待っていただけのようで、それ以降会う機会はまだなかった。
「超疲れてるじゃん、今日1限目から?」
家、この線だったんだ。俺はね、朝帰り。満員電車危険だよね、圧死するかと思うわな。今度コッチ方面で終電逃したら泊めて欲しいなぁ?
饒舌に話しながら渡してくれたミネラルウォーターをありがたく受け取って、ごくごく飲んだ。
「ありがとう。助かった。…君の事は何て呼べば良い?」
高杉に新しい友人ができた。