2人が出発した翌々日、親子も屋敷を留守にした。
『身寄りのない旧友の体調が宜しくない。急で悪いが半月ほど留守にする。』
繰り返したのはおおよそそんな内容だ。方々に頭を下げて回った。

問題は足だった。いつかはこんな事もあろうかと小型の空飛ぶ船を蔵に隠してはいた。
重い扉を開くと、冷たい空気と黴の香りが流れ出る。
ここには鬼兵隊の解散時に引き取った荷物を詰めている。亡くなった者の遺品もある。捨ても出来ず、それでいて側に置くのも心苦しい。そんなものばかりだ。
小船は、銀時と桂に託そうか迷ったものの止めたのだ。
桂は時代の要人になってしまったし、銀時は今や庶民のヒーローだ。彼らが目立つのは当たり前だが、だからこそ簡単に手も出せまい。
しかし乗り物なら事故に仕立て上げる事が出来る。恐ろしい話だ。
それは昔、高杉自身が用いた手でもある。

「父様、そんなの持ってたの」
ふいにフクの声がして驚いた。
「油差してねえから、こいつは駄目だ」
最後に乗ったのはいつだったか。血は付き物だった。
「乗れないの」
「ああ。残念だったな」
「じゃなくて父様が。運転出来ないんでしょう」
「言うじゃねえか。さ、狸共が怒るぞ」
「ハクビシンですって」
子連れ狼はそれらしくトコトコ行こう。勿体無い代物だ。
それに手入れをしていないのは事実なのだ。

 

京の町を見せずには行けまいと思ったが、良い思い出がない。
実際に賑やかな街を目の当たりにして、高杉は内心で途方に暮れていた。

あの店はまさか健在では無いだろうが。背を向けたものの、結局来た道を戻った。
置屋に匿って貰っていた時期があるのだ。
思い出を頼りに小路を歩き、確かこの辺り、と覗くと其処は今風の立派な宿になっていた。

勝手口から現れたのは宿の女将だろうか。きりりとした立ち姿が美しい。女の顔には見覚えのある泣きぼくろ。
よく見ると、昔世話になった姐さんその人だった。
止めた歩みを戻せずに突っ立っていると、隣のフクはもちろん、女将からも怪訝な目を向けられた。
彼女は旅装で子連れの高杉の姿を認めて一瞬思案したようだったが、目を丸くした。

「…逃げられたのかい?亡くなったのかい?」
久しぶりだと言うのに随分なお言葉だ。
フクの母親の事か。嫁ではないが、長髪を思い浮かべ笑った。
編笠を外しながら歩み寄る間、彼女は両手を広げて待っていてくれた。
ぎゅ、と親愛の情を込めて抱き合った。

「俺には出来すぎた嫁でな、仕事先に長くいるから旅がてら迎えに行くところだ」
「あらまあ」
みるみるうちに女将の顔が明るくなった。その暖かさに磨きがかかったようだ。
「それはそれは…。すっかり立派な旦那様になっちゃって」
「姐さんほどじゃねえ」
苦笑して返す。
これが、嫁。そう桂を紹介したらどうなるだろう。
女装で来てくれれば存外穏便に済むかもしれない。

それとなく空き部屋を尋ねると、割安で二泊させてくれるという。
参ったな。ますます頭が上がらねえ。しかし物は考えようだ。つまり、またこの街を訪れる言い訳ができた。

 

旅装を解き、通された部屋に寝転ぶと旅の疲れを感じた。
外は小雨が降り出していた。
「取り敢えず一服だな」
「タバコは駄目ですよ」
「…信用ねえな」
うつ伏せに寝そべる高杉の腰に頭を乗せ、子は仰向けで本をめくり始める。
紙の音は子守唄になった。
ぺら、ぺらり。めくる音にばらつきがある。
今のは前に戻って何かを確認した音。分からない事があれば俺に聞けば良いのに。

旧友たちの姿と比べてしまうのは仕方ないと思う。
銀時は漫画ばかりで、桂は小難しい本は勿論だが、時折その後ろに隠した別の何かを読んでいた。
自分たちを育てる身と比べれば随分と楽なものだ…。

「父様、ちょっとお宿の周りを偵察してきますね」
その声にはっとする。
「…降ってるぞ」
「傘あります」
「何かあったらすぐ連絡しろ」
子どもの体力とは恐ろしいものだ。片手を上げて送り出した。

 

知らぬ間に寝入っていた。
いつしか雨は上がり、遠くの緩やかな山の麓に薄っすらと虹が掛かっていた。
穏やかな深い息を続ける持ち主の手綱を逃れ、心は山の向こうへ飛んでゆく。

夢を見た。

昔、共に戦った面々が出てきた。
朝焼けの中、川べりに皆で腰掛け酒盛りをしている。
向こうでは人それぞれで流れる時間の速さが違うらしい。
亡くなった時のままの姿の者も居れば、今の自分と同じ様に年を取った者もいた。
ある者などは人の支えが無いと歩けない程のご隠居様だった。
よろけるから駆け寄って支えてやると、酷く弱気な声で「総督…こんな姿をお見せしてしまって…」と彼は呟くのだ。
これは夢だ、と自らに言い聞かせるも胸が苦しい。
「良いんだ」
こうして、お前が会いに来てくれただけで。それが、何よりも嬉しいんだ。
言葉に詰まりその手を握る。
老いた手は温かった。

大層幸せな世界だった。
その世界の掟を知りながら皆と笑っていた。
盆になると彼らは長居ができる。そうでない日は短時間で済ませて帰る。
それじゃあまた晴れの日に。

 

目覚めた時、目元が濡れていた。
心音が煩い。これでも若い頃に比べれば夢見は随分良くなったのだが。

身を起こし暫くぼうっとした。
現世は夢とは違い夕焼けだ。
この陽を瞼の向こうに見た自分が思い描いた光景だったのだろうか。
フクは何処へ。
今が幸せだから尚更に昔の事を思い出したのか。
俺は、怯えているのか。
情けなさと、何故か安堵が込み上げた。
俺が何時あちらへ引かれても良いように、あの子を鍛えてやらねば。

「せっかく来たのに、なあ」
膝を軽く叩いて立ち上がり、街を歩く事にした。
出掛けに聞くと、フクは姐さんの娘と仲良く出掛けたと言う。
あいつ、一丁前に。

 

散歩の途中、高杉はこの街で過ごしていた頃の自分を見た。幻とは分かっていたが、背筋が冷やりとした。
橋下の暗い端に佇む姿は悲壮感に溢れていた。
日々をほそくほそく繋いで自堕落に生きていたあの頃。
自分を大事にしろ、と声を掛けてやりたい。体を、心を。
その後姿に、フクを重ねてしまう。
するとどうだろう、暗い目をして俯き加減に佇んでいた青年は、ふいに振り向いて笑う。
それは今よりずっと大人びた姿をしたフクだった。
川べりに並ぶ楽しそうな恋人達のどれか、の片割れかも知れない。

未来を想像し、子の恋路に狼狽える自分に吹き出してしまった。
そうさ。俺は今を生きている。

 

夕焼けの川べりをしばらく歩き宿に戻ると、フクと姐さんの子は庭の植木を見上げながら何事か話し込んでいた。

「そんならウチの夏蜜柑、食べにおいでよ」
「すごい。育ててるの」
「父様が。塾の子はみんな狙うけど、父様怒らせると面倒だから誰も上手くいかない。でも自分で取りたいよねえ」
「手、届かないでしょ」
「秘密だよ、実は友達が天才で、」
「で?」
ひいいっとフクは竦み上がった。高杉は笑ってその肩に手を置く。

別にな、良いさ、子どもらが挑戦してくれるのは楽しいもんさ。だがなあ。
「ありゃ、やっと実をつけ始めたんだぜ。旨い実にして食いたいだろ。取るのも楽しいだろうが、一番旨いところを取るのが粋なんじゃねえか」
「木戸先生みたい…」
腕組みで話し出す高杉に子は呟いた。

これ程までに嬉しくない言葉があるとは。仏頂面が堪えられない。
「そりゃ無えだろ。チッ…酷え話だ」
やれやれと肩を上下して見せるとフクは笑った。隣にしゃがむ姐さんの子も笑った。
色の白い、つやつやしたおかっぱ頭の少女だ。えくぼの浮かぶ柔らかそうな頬が、剥いた桃のようだと思った。
「びわさん、どうぞ」
「悪いな。ありがとう」
小さな手から、ころんと実を受け取る。隣のフクも自慢気に見せつけてくる。
ヘェ、仲良くなっちまったな。

「父様、湯葉のお店に行きましょうよ」
立ち上がったフクに背を押された。
子ども達の楽しみを邪魔するようで気が引けたが、フクは笑顔で姐さんの子に手を振って歩き出す。
「世話んなったな」
高杉も少女に手を振った。

 

一度部屋に戻り、茶を淹れて小休止をした。
フクがもごもごと口を動かしている。
「ん。何か戴いたのか」
「ガム。あの子に貰いました」
フクの息に混じる薄荷の香り。辛いものはまだ苦手な筈だが。
「女の子が普通に食べてるから、食べなきゃと思って」
「そりゃあ良いな」

淹れた茶にすぐ手を伸ばそうとするフクをそっと止める。まだ熱い。
「みかんは、みかん色の花が咲くと思ってたんです」
あまりに分かりやすいがっかり声を出すから吹き出してしまった。
「そんな事話してたのか。残念だったな。桃は、桃色だが」
「それ、よく言いますよね」
分かった風な口を聞きやがる。
「苺は白いな」
他に知っているのは何だろう。
「りんごは何色ですか」
「そうだな。りんごは」
何色だったか。高杉にとって、何故か白のイメージがある果物だ。皮が何色でも剥いてしまえば同じ呼び名になってしまう。いや、品種で味が違うか。なら品種ごとに花も変わるのだろうか。それは几帳面なことだ…。
「お前は、赤い花だと嬉しいかい」
「赤ですね。絶対に赤だと思います」
男の癖に花の色にこだわるか。好みが煩いまま育ったら将来女にもてないかも知れない。我ながらお節介な不安がよぎる。
「何で」
「赤、美味しそうだから」
はは。
しかし花は梅、白が一番だ。と思う自分の矛盾に気付き顔をしかめる。親子だな。

「…ちょっと好きかも」
「何が」
「あの子」
驚き、びわを弄ぶ手を止めた。俯くフクの頬が赤い気がする。急にどうにも上手く息が出来なくなった気がする。
「お前、好きって意味、分かってんのか」
自分がこの年頃に何を考えていたかなんて、どうせ喧嘩だろう、と言うのは笑い話だが。
はたと考え直すと残念ながらそれは事実であった。

「父様と先生もそうなのでしょう」
これは驚きだ。同時に置いてけぼりを食らった様な寂しさを感じた。
例えば。ある日、子が本を片手に質問をしにやって来る。それは絵本かも知れない。
「こいって、なあに」
そう問われていたら自分は何と答えたろうか。しても仕方ない想像である。
思わず小さな舌打ちが出てしまった。
何でも初めからが最も面倒でありながら、一等面白い。
物事の全てがそうだ。

こちらに向く小さな背に腕を回して強引に引き寄せ、抱き締めた。
何か文句を言われるが気にしない。まるで腕の中に熱の塊を収めたようだ。
「お前も、本当に大切だと思ったら、誰かさんにこうすると良いさ」