飯も食わずに毎晩安い酒ばかり飲んで遊び歩いていたらとうとう血を吐いた。
一時の住処として借りていた長屋に帰る夜道、坂道の終わりにポツリポツリと灯る街灯の下。
刀傷も受けないのに自身の体から流れ出る血には流石にゾッとした。それでも舌打ちする気分が勝り、イライラと塀伝いに歩きながら懐から煙管を取り出す。その後姿の哀しい事この上ない。
気を紛らわそうとしても、彼の手には驚く程に何も無かった。塀に沿って、足下では細い用水路が流れている。
酔った目だからか存外に水は綺麗に見えた。今夜は月の光も澄んでいる。
こんなに良い夜だってのになァ。
京のまちは竹の美しさが目に付く。
口元の血を拭い、壁向こうの豪邸に茂る竹林を見上げながら一つ深呼吸をした。
壁にもたれて一服してから、高杉はふらふらと歩き出す。本人にそういった自覚がなくとも、酷く危なげな姿だった。
暗闇に響くのは己のゼイゼイいう胸の音だけ。
時折息を殺して周囲を伺うが、嫌な足音は何も聞こえてこなかった。生きるものの足音は。
あぁ面倒だ早く鎮まれと、闇にそよぐ竹の青を時々横目で見上げて歩く。
長屋に辿り着くと同時に上がり框に倒れ込み、そのまま意識は泥に沈んだ。
冷たい泥の中で、途切れ途切れに子供の頃の夢を見た。夕陽に光る小川が眩しい。
その夢は尻切れとんぼに終わり、最後には背中に妙に現実感のある手の暖かさを感じたのだった。
「晋助」
目覚めると真新しい寝間着を着せられ、さらさらとした布団の中だった。
天井を見る限り、いつもの長屋ではある。もう良いやと思った。何が起こっても、ここが何処の世でも。
実際のところ生きるのがもう辛かったのだ。
右に左にと寝返りを打ち、さてと起き上がろうとしたその時に、たす、と床張りを擦る足袋の音。
まさかとは思ったが夢に見た顔がそこにあった。
まさか本当に捕まるとは思わなんだ。
彼らのその後の話から、足取りを予想する事も出来ることは出来たが、もはや殆ど当てずっぽうの旅であった。
桂は必死だった。
生きている、と信じて歩くしかなかった。
それからは当たり前の顔をして長屋に入り浸り、桂は何くれと高杉の面倒を見た。
生きて会えたのだから。それだけで、良いのだ。こちらからあれこれ聞く気にはなれなかった。
それにしても、一体何をして長屋を借りる銭やら酒代を得ていたのやら。
高杉は、夜になると黙ってふらりと出掛け、明け方に青白い顔で戻る。
数度咎めた所、存外おとなしく部屋に篭もるようになった。
自分ひとりなら托鉢ででも凌げるが、今はまともなものを食わせたい。
部屋代と最低限の飯代を、と桂は時折日雇いの仕事をこなし、温かいものを食べさせる。
次第に高杉の顔色は良くなった。
それでもまだ、夜中に魘されたり泣きながら目覚めたり。
飽きずに全くお前はと言いながら背中をさすってやる。
そんな夜が続く内に2人の間の距離感も掴めなくなってきていた。
ある夜、また酷く魘されるので強引ながらも上体を抱き起こし悪夢から引き上げた。
夢見の所為で興奮したのだろう、頬に触れると熱い。
逃げるなり嫌がるなりの気配も無く大人しく触れさせるので、そのままに撫でた。
シャーシャーと毛を逆立て威嚇していた癖に慣れれば目を細めて喉を伸ばす野良猫を連想させられる。暫く撫でると、やっと落ち着いた。
しかしこれで安心と思っても時折小さく震えるから、着物越しに肩を優しくさすりぎゅうと抱き締める。以前と比べると随分痩せてしまった様に思う。
昔のままに無邪気に触れるのはためらわれたが、寄り添わずに居るのも不可能だった。
一度抱き締めてしまうと底無し沼で、もう二度と離すものかと思った。
やっと会えたのだ。
桂だって、優しいだけの親鳥では居られなかった。
せめて心身ともに高杉を壊してしまわぬよう、ゆっくり触れた。
「すまねぇ…ヅラ」
事が終わり、寝間着を着せかけてやっていると高杉が呟いた。
下を向き、振り絞った声。彼の口から己に向けてはめったに聞けなかった言葉だ。
久方ぶりのはずなのに滑らかに体が反応した事に対してだろうか。それは大方の予想はしていた事で、咎める気はなかった。
それとももっと大きな意味で、例えばずっと心配をかけて「すまない」だろうか。
そうか。そんな考えが出来るようになったのか。
海より深い俺の愛にようやっと気付ける程に大人になったのか。
改めて、行方知れずだった間の高杉の日々を思い胸が痛むのだった。
そうしたくなった時に話してくれれば良い。お前が帰る巣はいつでも俺が温めて居る事だけは忘れてくれるな。
突き詰めてみれば、本当に伝えたい事はそれだけで、静かに話した。
幼馴染である己にどうにか強がって見せて安心させようとしているのか、ひたすらに哀しくて、愛しく感じた。
何を今更強がると言うのだろう。俺の前でそんなもの、とっくの昔から意味などないのに。
高杉は高杉で、子供の頃のまま自分を諭し宥めてくれる温かい桂の手が心底不思議だった。
たった1人で、努力を重ね生きてきた少年が、どうしてこんなに人を思いやる男になれたのだろう。
比べて俺は。将の器には足りない所だらけさ。
桂の手に頬を擦り寄せる。
ひと月の間を桂と共にその長屋で過ごすと、高杉はある日忽然と姿を消した。
手紙も形見も、残り香さえも。後には何も残さなかった。
どれだけ俺が悲しく思うか理解していただろうに、な。
彼の行く末が少しでも明るいほうへ向かうと良い。青い空を見上げ桂は願う。
胸の奥のどこかにある隙間を、冷たい風が吹き抜けていった。