朝食後、桂が満面の笑みで冷蔵庫から取り出したのは水羊羹だった。
丁寧に菱形に切り取られ、つやつやしている。
甘味は苦手な高杉にもそれは魅力的に見えた。
「木戸先生すごい。…コーヒーゼリー?」
確かに子には早かろう。
「いつの間に。…銀時なら飛び上がって喜ぶな」
その通り。折角来てやったんだから、それは銀さんに寄越しなさいよ。
いや飛び上がんねえけど。
垣根の向こうに潜む怪しい影に気付く家人はまだ居ない。
彼の頭髪はいくつになっても変わらない銀髪だ。
噂には聞いていたがこの目で認めてしまうとやはりショックだった。
ふうん。へえ。ガキをこねくり回すの楽しそうだなオイ、随分しっかりした坊主じゃねえか可愛くねえ。
手土産、喜ぶだろうか?
母親宜しく笑顔を向けてくる桂の気持ちを無下にも出来まい。
何より、子を隣にして人の好意を断るのも如何なものか。
高杉はいただきますと手を合わせ、粋に添えられた黒文字で小さく切り分け口にした。
「ふうん。良い味だ」
本心だった。
「良かろう、俺の料理は一級品だ」
隣の高杉の様子を伺った後、フクも真面目顔で「いただきます」と手を付ける。
「美味しい。香ばしいって言うか。黒糖ですか?」
「よく知ってるな」
「ん…昔、食べましたから」
ああ。昔、とは恐らく生父母との思い出だ。
「そうか」
何と言葉を掛けるか迷ったが、頷くだけにしておいた。
子の表情は落ち着いている。胸を撫で下ろしたのに気付かなければ良い、と高杉は願う。
桂はそんな2人の姿が愛しかった。
この屋敷を訪れた回数はまだ片手で足りるが、既に勝手知ったる、だ。
いそいそと持参の茶道具を取り出すと親子は興味津々である。
昨夜と同じく囲炉裏で沸かした湯を使い、手前を披露した。
フクが物珍しそうに桂の手元を覗き込む。
「何です?シャカシャカ!」
何が面白いのだろうか。
早い早い、と笑い転げる子を「うるせえ」とむんずと掴みそうになって、高杉は手を引っ込めた。
初めて、か。
きっと多くの物を見るのは良い事だ。
沢山見せて、笑わせて、学ばせたいと、温かい気持ちになった。
「スピードが命だ。少しでも遅いと黒い茶が出来てしまう」
生真面目な顔を崩さないものだから、桂の冗談はたちが悪い。
「…親子揃って騙せると思うな」
「えっ」
茶碗から顔を離し見上げてくるフクの肩を抱き寄せた。
「澄ました顔して此奴が一等の悪童だったんだ。俺なんぞ、毎回被害者だったんだ」
「何を言う。失礼しちゃうわ、んもう!」
父様、ひがいしゃって何でしたっけ。
聞きたいのをフクは堪えた。2人が笑顔だったからだ。
こっそり大人たちの様子を眺め、ああまただ、と思う。
木戸先生はやさしい。
偉そうに見えるけど、父様は、何だろう、木戸先生に甘えている。
『僕はいつも、2人は仲良しだなあと思っています。』
そう作文に書きかけ、止めた。
もう少しだけ僕が子供の頃にこの家の子になってたら書いただろうな。
たまに、どんな大人になりたいか、なんて聞かれるけれど子供にとっては甚だ迷惑な話。以前、友と話した。
ほんとほんと。真面目に答えたって、大人から返される言葉は大抵つまらない。
友の手前そんな風に話を合わせたが、実を言うとその妄想は楽しい。
静かな屋敷を訪ねてくる桂、それを出迎える高杉。
まず大人ってのはあまり喋らない。その癖フクが知らないうちに2人だけの秘密、決まりごとが沢山あるようで時々いらいらする。
よく喋る大人だって沢山いるが、因みにそれは女の大人同士に多い気がするが、やはりフクにとって「大人」というのは桂と高杉だった。
この家の子になってひと月も経たない頃だ。
まだただの生徒だった時分、この屋敷を訪ねて来たところを見ていたので、彼の姿は覚えていた。
結った長い髪、姿勢の良い後ろ姿。少し怖い存在だった。
目が合って頭を下げると、腕を組んだまま無言でほんの少しだけ頭を下げ返してくる。
顔を上げても無言、無表情。
おおよそ子供に対する態度ではなかった。
おお、と隣に住む怖い爺さんだって一言は返してくるのに。
あのくそ爺。
あったあった、そのへん俺も騙されたやつな。
今や胡座で居座る男も、高杉らの会話にひとり頷いていた。
それにしても。
幼い日の自分に幸福を塗り足されているようで不思議と胸が温まる。
今のあの子の幸せが移ってくるような光景だ。
此処は松陽の家に似ている。
高杉とは腕っ節や早食いやらで分かりやすく勝負できるから良かった。
だが桂は一味違う。
あの頃に感じていた気持ちを今の自分の言葉で表すと、異次元に何か凄い奴、だ。
濃い目だが甘くて旨い、匂いは気にするな。そう勧められて飲んだ「麦茶」はコーヒーで目を白黒させられた。
冬の日に食べたイチイの赤い実があったろう、これこうして夏にも成るのだ、と渡され喜び頬張ったそれは酸っぱい梅桃。
美味いもの不味いもの、いつも側で笑っていた友の顔。
いま彼が隠れる側の垣根もちょうど花の盛りだ。
これは確かツツジ。
何なら花びらも食えると豪語する高杉に負けじと頬張ったら酸っぱくて、ぶつぶつ文句を言ったものだ。
懐かしく思い、濃いピンクの花をぷちりと失敬した。もう騙されない。これは蜜だけ吸えば良い。
土埃?だいじょぶ、大丈夫。
味覚に直結するなら今も昔も物の名前は覚えやすいのな、とひとり笑いをしていると急に腹が痛くなってきた。
心を落ち着かせ意識の外に追い出そうとしたが、警報レベルだった。
背筋に冷や汗が浮かぶのを感じる。
最早なりふり構わず彼らの前に走り出て縋るしかなかった。
「助けてえ、お父様助けてえ!」
大小3人分の驚きの目を向けられたが、気にするどころではない。
「多分なんだけど花の蜜吸ったら超腹痛いの!何も言わずにお手洗いを貸してくださいお父様!」
「…誰?」
「何やってんだお前は」
「…銀さんデリケートなの知ってる癖に」
暫く占拠させていただいた小部屋を出てしまうと、取り繕うも何も今更だった。
笑い合った少年時代、共に苦しんだ日々、そして甘い恋。
「はいストップ。いかんぞお前ら。みっともない喧嘩もいかんが、再燃も無し。銀時と取り合いは骨が折れる」
「おいヅラ…」
苦笑する横顔に胸が甘く震える。
ま、今はお互い幸せだからね。
強いて言うなら風の便りで知るより直接伝えて欲しかった。
「しませんー。まあね、刺激が欲しいってんならね、全然。任して下さいな」
「オホン、悪くない」
「よく言うぜ」
桂は腕組みをして咳払い、高杉は笑って肘鉄をかましてきた。
「嫁さん元気か。お前と喧嘩したらここに来るよう話しとけ」
「何それ腹立つ」
「いくらでももてなすぞ」
「ヅラと高杉で?何それ銀さんイラッ。無しです無しです。ハイこの話終わりだから。
でもねえ、実際ねえ…。どうしよっかな、土産何にしよっかな。お勧めとかある?」
桂はフクを伴い、また茶を拵えに行った。
縁側に並んで腰掛け、ぽつりぽつりと話す。
「で、どうしたんだ」
「どうも。たまには幼馴染の顔を見たくなるでしょ」
「ヅラに呼ばれたんだろう」
「改めて言われなくてもってのはあるだろうけどさ。ヅラもヤベーけど、お前だってヤベーんだぞ」
それは覚悟している。筈だった。
しかし今はフクがいる。
「俺は万事屋だぜ」
静かな衣擦れの音。銀時の手が伸びてくる。閉じた瞼を撫でる熱。
ふう。一旦指が離れるのを待って息を吐いた。
「吹っかけんだろ」
高杉はわざと乱暴に、隣の肩に腕を乗せた。
落ち着かない様子で銀時が身じろぎする。再び瞼に感じる肌。
「えっと、誠心誠意お勉強させていただきます。この通りの安心価格」
「手は洗っただろうな銀時!」
「ひゃっ」
桂の声が響き、慌てて高杉から体を離した。
反対に高杉は姿勢を変えなかった。
それまでの様子を知ってか知らずか、茶と水羊羹を手に戻ってきた桂は特に突っ込まなかった。
「そう虐めてやるな」
見事な状況判断だ。
高杉は意地の悪い笑みを深くし、銀時の顔を覗き込む。
「そんなに怯えられちゃ俺も傷付くぜ」
「ちっ、チビ助が怖い訳無いでしょ」
顔が赤い。
「銀さん」
大人3人の動きは止まった。
銀時の分と自分の分、小さな手がふた皿の水羊羹を並べたところだ。
一斉に向けられる目に小さな頬が薄っすら赤らむ。
「はい、銀さんです」
そちらに体を向け、笑って見せる銀時。
上手く笑顔になっていると良いが。
「髪の毛かっこいいですね」
知らぬふりで茶を並べる桂、体を離す高杉。その口元は揃って歪んでいる。
「・・・ヅラに吹き込まれた?」
疑いの目をしながら、銀時は小さな頭を撫でた。少年にしては猫っ毛だ。
「違うよ」
うふふ、とフクは笑った。
多分お察しの通りだけど。
そう銀時は切り出した。
「ヅラの援護射撃ってのは当たり」
どたん!奥の壁で倒立の練習を始めたフクだが、習得までは先が長そうだ。
「ヅラもヅラで言い出したら聞かないから黙ってたけど、お前ら2人とも危ないからね。
狙われてる奴を、また狙われてる奴が守ってどうすんだ。目立って仕方ねえだろ。
対して俺は善良な一般市民。でしょ?」
「お前が晋助を護衛?」
「二度手間ぁ!そうじゃなくて。高杉はもっとこっそりやれ、な」
「俺の手間が減る訳じゃねえのか」
「超減るわ。そこ超感謝して」
ぼふ。今度は受け身の練習か。精が出る。
高杉は、それは明日な、と昨夜約束した刺身のことを思い出した。俺も食いてえ。
銀時の案は悪くない。
「パーにしちゃ上出来だ」
白夜叉様の助けなど願ってもない。
ついでにと思っていた家族旅行も、それならもう少し本腰を入れて楽しめる。
「ただな銀時、俺を変な目で見るなよ」
「ヅラ?要りませんー」
銀時お前は良いのか。桂は心配になったがその言葉は飲み込んだ。
ここまでやって来た時点で彼の答えは決まっているだろう。
「良いと思うぜ銀時。きっちり報酬は貰っとけ」
「可哀想に涙目じゃないか。良いんだぞ素直にジェラシィを見せてくれて」
「…例の会合は大ゴケで決定だ」
銀時はぽりぽりと頭を掻いた。
ずしゃあ。ぼふ。今度は合わせ技のようだ。
壁倒立(まあ不完全だが)、からの前転、うさぎのように跳び上がる。
「フク!埃が立つから布団でやるな!」