昨年の暮れ、塾生の中からひとり養子に取った。
家族の都合と言うものが、どの時代でも何かしらあるのは仕方ない。しかし両親の不慮の事故やら親戚らの知らぬ存ぜぬの顔が重なる状況を黙って見ているのは我慢ならなかった。
人並みの子どもとしての幸せに疎かった旧友2人の幼い頃と重なり、ふとそうする事こそが人生最大の目的だったように思われたのだった。

その子の身に不幸が起こってからしばらくの間は、誰も居ない家にひとりで返すのが嫌で夕飯を自室で食べさせてから送り届ける日が続いた。それを続けると今度は小さな背を静かな門の向こうに行かせるのが心底嫌になる。
結局、冷たい雨が続いた冬の日に「お前はもう俺の子だ」と抱きしめた。

ひと月が経つと親子の形も大分板に付いてきた。師とその教え子、から父と子へ。2人にとっては拍子抜けするほど簡単な事であった。
愛しい、守りたい。そんな気持ちが自然に湧き出てくる自分が不思議だったが、その不思議さにこそ見て見ぬふりを決め込むと穏やかに日々は過ぎていく。
子の名はフクと言った。

晴れた初夏の朝。
自分の着物の横に小さな着物を干していると、不意に鼻の奥がツンとした。
おれはいつの間にやら大層な幸せ者だ。命をひとつ守る事で過去が赦されるとは決して思わないけれど、出来れば長生きしてあの子の成長を見届けたい。親心だなんて、俺が持つ日が来るとはなァ。
悪党ほど血の繋がりに弱いとはどこで聞いた話だったか。血に拘らなくとも家族という意味でなら確かにあいつは俺の弱点だな。そう思う自分が可笑しかった。
感慨に浸っていると、どうも何処からか笑い声が響くようだ。そう言えば今日は客が来るんだった。
洗濯を終えて縁側に上がり、賑やかな玄関に向かう。
戸口には予想通りの姿があった。心配無用と何度も言ったのに時折菓子を持って訪ねてくるものだから、木戸先生木戸先生とフクも随分懐いてしまった。

「ヅラぁ、俺も甘やかしてくれよ」
「…馬鹿杉が。新米モンスターパパが心配で家庭訪問してやってるんだ。俺の顔が見られるだけありがたく思え」
ククッ…獣だってちゃあんと子育てするんだぜ…。誇らしいような気恥ずかしいような気分でムズムズして、懐の愛用品を探すがいくらかき回しても出てこない。
そこで思い出すのは、フクに取り上げられたまま行方不明の煙管。

また無駄な動作をしてしまった。日に3度はやっている。いや一昨日はもっと、一時間に一度はやっていた気がする。それを考えれば日に日に順応している自分が恐ろしい。
没収初日は大人気なく額に青筋を浮かべフクを追い回したがどうにも見つからない。それだって前の休日の話で、あっという間に十日も吸わない事になるから驚きだ。
フクと桂は、高杉を差置きさっさと家の中に上がってしまった。もう座敷で本やら土産やら広げて楽しんでいる。
少々面白くない気分で後を追うと「木戸先生」が猫なで声を掛けてくる。
「お父様、さっさと茶でも戴けませんかな」
妙に気取った声で呼ばれるとその都度少しイラついてしまうのもキセル断ちついでに克服したいものである。
「父様お任せください!」それ来たとばかりにフクが台所に向かう。小さな足が立てる軽い足音が、年季の入った飴色の板床に響いた。

古民家を格安で譲り受けた高杉の教場兼住処にはかつての家主の古い持ち物が多く残っている。
中でも気に入っている物が鉄瓶だ。囲炉裏の上に吊るして湯を沸かして見せたら桂が喜ぶだろうと思った。得意気に水を汲もうとするフクに鉄瓶はやはりまだ重い。危なっかしいので小さな頭に手を置き止めさせ、もてなし準備の続きを引き受ける。
台所に嵌まる小さな格子窓のすぐ先では鶯が鳴く。

湯が沸くと3人分の茶を淹れるのは桂だ。
もてなさない自分が言うのも変だが、ありがたい客人があったもんだよなと笑ってしまう。
隠居して子供たちと接するようになって初めて、高杉もそれなりに一般人の感覚を掴んだ。昔だったら桂に何かして貰う事に対しありがたみを感じた事など無くは…いや無かった。素直に感謝の気持ちを感じている今だからこそ、理解していなかったのがよく分かる。
笑顔の桂からフクに差し出された茶が嬉しい。自分に出されるよりずっとずっと嬉しいものだ。これが親の心というものか。
高杉は胡座をかいた膝の隙間に捕まえたフクを乗せ、桂はきっちり正座で、まずは茶で一服した。
教場は休日と言っても朝稽古をした後なので、フクの体力はちょうど良く落ち着いて行儀も宜しい。

「塩梅はどうだよ、ヅラ」
大人2人は、外で出来ない内緒話を始めた。今や「木戸」と姓を改め新しい世のため尽力する桂は、表の仕事で心配事があると言う。
「ふーん…こっちから動くんなら止めた方が良いと思うな、俺は。強いて言うなら、こっちに刺客を向けたくなる程度の事をしてやってだな、それを斬るってんなら俺が出てやっても良いかもなァ」
トトト…と天井裏から軽い足取りが聞こえる。
桂は口をへの字に曲げ、腕を組んで天井を見上げた。
「随分大きなネズミだな」
「あれな。ハクビシンが住み着いてんだよ」
「害獣だろう。巣を作られる前に追い出さないと困るぞ。…お前が相手取るには随分と可愛らしい獣だがな」
「…獣だね」

天井から目線を高杉に戻して桂は嬉しそうな顔をした。
「…高杉くんも獣じゃん?忘れたとは言わせんぞ」
無言。
「ごめんやっぱ無理。いま俺イクメンだから」
無言。
「…晋助ぇ?」
無言。

高杉の膝から降り、フクが土産の菓子を開けて食べ始める。
ぽりぽりと音を立てながら、訳知り顔で口を開いた。
「父様、子連れ狼は如何です。僕、危ない時はちゃんとひとりで逃げます」

「グフッ。ゲホ」
物を食べながら話すんじゃない…それどころではなかった。高杉は、無言の間に口に含んでいた茶で噎せた。
以前ならこういう時は煙管で時間稼ぎが出来ていた事に気付く。今の高杉に何よりも必要なのは間だ。ま。桂は桂で言い出しておきながら、幼い子を巻き込む可能性に少し後ろめたくなってきた。
だが「子連れ狼」とはなかなかに魅力的な言葉である。

「お前、晋助から剣術を習っているか?」
桂のテンションが上がってしまった。
とんだ家庭訪問だぜ参った参ったと口には出さずに独りごちる。確かにこいつは己が身の不幸に負けず、体は丈夫だし勤勉な子どもだ。危ない目に遭うとしても俺が側にいるのと、少なからずまたひとりの日々を味わわせるのと、どちらが非情だろうか。
答えはもちろん前者だ。そもそも問題はその前の段階にある。
「俺はやらないからな」
「でも面白そうだろう?」
茶をひと口。痛いところを突いてくる。久々に感じている高揚感。
「こいつ連れてくかどうかはまず置いてだ、それ塾閉めて何日かはそっちに行かなきゃねえだろう。嫌だぜ俺は」
「むう…」

どうにも膠着状態が続くため、昼の家庭訪問は一旦お開きになった。
3人で連れ立って裏の畑を手入れ、と言うか博識な「木戸先生」のありがたいご指導をたっぷりと賜り(晋助、苗が倒れておる!)、屋敷から少し歩いた砂浜からよく晴れた日本海をのんびり眺め、温泉に浸かった。
夕餉の準備は、高杉とフクが七輪で魚を炙り、割烹着を被った桂が汁物を作った。
温かな夕食の場が終わると3人で囲炉裏を囲む。
囲炉裏の火は、暖を取るやら煮炊きするに加え、空気を循環させて余計な湿気を追い出し、ついでに家人を悪いものから守るという。
日本酒の猪口が2つと甘酒の猪口が1つ。
確かに穏やかな火に守られ、満ち足りた夜だ。

最近読んだ書、友人と見つけた裏山の古井戸について(お前ぇ、んな危ない事してんのか。引き込まれるから絶対に覗くなよ。)。かぶき町の最近の様子は如何ですか…。
フクは高杉に寄りかかり、子供の話でもきちんと耳を傾け言葉を返してくれる桂とのお喋りに夢中だったが、次第に小さな頭は船を漕ぎ始めた。
大人たちにのけ者にされるのを恐れて「眠くないですったら」と強がるフクを、明日はあじの刺身を食べに行こう、と安心させる。
そこでやっと「うん」と色よい返事が聞けたので、洗面所での寝支度を監督した後に高杉が背負って布団に運んでやった。
布団に押し込めると、余程我慢していたのかフクはすぐに寝付いた。

満足そうな寝顔に胸を温め、大人達は居間に戻って続きをやる。
「かかる日数など実際1週間くらいだ。そのくらい、閉めたところでどうともならんだろう」
そんなのは分かっている。ただ、歳をとって慎重になっただけなんだ。イクメンだし…。
高杉は深く息を吐き、桂の膝に頭を載せ寝そべった。
トト、トトト…。またハクビシンだ。夜になると森へ出掛けるのだ。まだ1頭だけだから放っているが、もし連れ合いができたら桂の言うとおり引っ越して貰うのが良いだろう。
「木戸先生、日取り教えろよ」
膝上の男の顔は未だ美しい造作を保っている。それを見下ろす桂は、胸が温かいもので満たされるのを感じた。
前髪を指先で払ってやると現れる、もう二度と開かない片目。瞼に触れると酒のせいか常よりも熱かった。これが出来るのはこの世で俺だけ、長年そう思って生きてきたが、どうやらそうではなくなってしまったようだ。
高杉から唐突に「子育てする事にした」と告げられた時は心底驚いたが、楽しそうな2人の姿を目の当たりにすると長旅の疲れも霧散し、不思議とすんなり受け入れられたのだった。

「良いのか晋助」
「良かねぇさ。…ヅラ、酒くれよ」
健在のもう片方の目もゆっくり瞬きしてから閉じてしまった。こちらの瞼はもう少し熱い気がする。確かに在るものの熱だろうか。
長い付き合いだ、桂にはもう分かっていた。いま高杉の頭の中にあるのは面倒事を断るための言い逃れなどではない。
子どもたちの親にしばらく塾を閉める旨の連絡をしなければとか、畑のものが日照りすると困るから誰に頼もうかとか、いや待てそれなら道中あそこに寄りてぇなとか、そんなところだろう。フクに見せたい景色や、歴史の勉強にでもなる訪問地なんかも考えているかもしれない。
彼の口とは違い、高杉の頭は信頼している。さて。それなら俺は宿を探してやらねば。

猪口に酒を注いで眼前に運んだら「一口で良い」と強請られた。
一度差し向けた猪口は、自分の口元に構え直してゆっくり飲み干す。
ここに来る途中で京に立ち寄った際、土産に求めた良い酒だ。囲炉裏の火が移ったか、ほんのり温いのが旨い。燗にするのは少々勿体無いが…ふむ、試してみたいぞ。
桂は屈み込み、酒で湿らせた唇で高杉にそっと触れた。

酒をひと口、と高杉が請うのはこういう事だ。
若い頃、彼の意図するところを汲み取りすぎて口移しで「一口分」注ぎ込んでやったら拗ねられた事がある。酒が薄まる、味が変わる、勿体ねぇよ馬鹿。
それ以降はずっとこうだ。桂が唇を離すと、高杉はちろりと己の唇を舐めて微笑った。
「ぬる燗てもんの良さがやっと分かってきた気がすらァ」
つられて桂も微笑む。続けて口を高杉の耳元に寄せる。
「ひと月後の東京の会合で、きっと俺は奴を本格的に怒らせる。向こうも勘付いてる。奴の側から仕掛けてくるとしたら、もう間も無くだと思わんか」
「そうだなァ。本当によく来たな、ヅラ。ひとりで来たってそれ、そう思ってるのはお前だけじゃないのか」
「怖い話だな。しかし、その通りだ。いつお前の力が必要になるか分からん。…真面目な話だぞ」
ならこの手は何だ。ご所望通りに一口の酒をやったのだから良かろうが、とばかりに桂の手は己のしたいように好きな事を始める。
少しだけ上体を持ち上げて、高杉は桂の額に自分のものを触れ合わせた。
「俺は寄るところがある。10日の間、自分の身は自分で守れ」
真剣な顔を作っているが、どうにも目の輝きは隠せていない。
「そりゃあ。向こうさんも出方を迷ってる筈だぜ。万斉を先に遣るから奴を頼りに備えとけ。万が一の時は、そうだなァ、その髪は綺麗に残して行けよ。俺が後からゆっくり逝くときゃ持ってってやるからよ」

「フン、決まりだな」
桂の言葉に返事は無いが、2人とも納得していた。
高杉は滑り落ちてくる長髪に目を細め、露わになる首筋に手のひらを滑らせる。
ここに来て子の存在が気になった。布団に入ると寝付きは良い筈だが…。息を潜めフクの眠る部屋の方向に耳を澄ませてから、高杉は体を起こし桂の背中に腕を回した。

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そこはまた知らぬ神社の裏山
晴れの国から雨の国へ向かう道のり、濡れた竹やぶの薄緑の美しいことと言ったら。
荒波に白く煙る乱暴な日本海を親子で見に行こう。夏蜜柑をたっぷりの砂糖で煮つめて、その出来立てのとろとろを指ですくって小さな口に運んでやる。
海辺の静かな料亭。約束の江戸入り日から数えて2週間前、早めに荻を出る。
かつての部下たちが若い頃の姿のまま、道中で陽気に農産物の物売りをしている。瑞々しい土地のものを、土地の子らにたっぷり届けるのだ。
暗い鳥居をくぐると、闇にぼおと狐火たちが楽しげにぷかぷか浮かんでいる。出店の笠売り、小さな麦わら帽子。
フクを連れて「入らずの森」を抜けたつもりが、そこはまた知らぬ神社の裏山の頂上で、2人で美しい湖を無言でただ眺める。
傍らに立つ椿の木には、不思議と落ちない赤い花が鈴なりだ。

高杉は、久しぶりに長い夢を見た。
記憶はあっという間に霧散してしまったが、鮮やかな景色ばかりだったように思う。
耳元ではずっと風の音がしていた。
どうやら俺は、自分でも気付かない部分で随分と浮かれているらしい。
顔を枕からずらすと、桂の寝顔がすぐ隣にあった。

相変わらず睫毛長ぇなと思った。
こっそり口付けようとしたら体が動かない。
重いと思ったら、掛け布団で桜餅の餡のように包んだ上から横抱きにされていた。布団の上にはずしりと桂の腕が伸びている。真夏だったら汗で干からびていたかも知れない。
今お前の体に潰されている抱き枕がいかに高級なものか、絶対に覚えておけよ。少しだけ呪った。夜中に抱き合った後、乱れた夜着を整えてくれたらしいのは心底ありがたいが、それにしてもだ。
こんなところをうっかりフクに見られたらと考えると気が気でない。

「お、も、い!」小声で抗議してもがくと唸りながらも離してくれた。代わりにこちらを向く背は夜着一枚。よく風邪を引かないものだ。
さて土鍋で米を…と布団を退けると寝返りを打った桂の顔が再度こちらを向く。
なんだ。最初から目覚めていたのか意地悪な野郎め。
確かに、熟睡しているならもっと不細工な目元を描くはずなのだ、この男は。口元が歪んでいるのがバレバレである。
布団無しで直に抱き締められる幸福。程良い僅かな湿り気と自分より高い体温が気持ち良かった。昨夜と同じように、長髪が柔らかく触れてくる。

「父様。僕にはいつも布団をきちんと被れと仰るのにいけませんよ」
予想し得る緊急事態よりもずっとずっと近くから子の声が降ってきて高杉は固まった。
間近の桂のにやり顔、その後ろからである。
「父様ダメじゃーん」これは桂。
「ダメじゃーん!」桂の肩越しに子が顔を覗かせる。いやにそっくりだ…。

良い朝だ。上出来じゃないか。
桂の体という壁の向こうからフクを引き上げ、大人2人の体の間に押し込んで抱き締めた。俺の可愛いいたずら坊主め。
片肘を立てた上に顔を乗せて親子を間近に愛おしく見つめた桂も、その小さな頬を撫でた。擽ったそうに首をすくめる子の瞼に軽く唇を寄せる。
堪らなくなって、桂はその子の父ごと覆い被さって抱き締めた。
「ヅラ…潰れる…ぐぅぅ…」「ちっそくぅ!」ピィピィ訴えてくる親子を一層強く抱き締め、左右にゆったりと揺さぶってから離してやった。
「ふぅー」
子を放り、高杉はごろりと大の字に伸びた。3人で笑った。
ひと呼吸置いてから勢い良く起きたと思うと、嬉々として桂の腹の上にダイブしてから(余りの不意打ちに桂は悲鳴も出ない)立ち上がり、子は顔を洗いに行った。小さな背を「卵見て来てくれぇ」と高杉の声が追う。
「高杉。世の父親というものは子にこんなに口付けをしたくなるものなのか?」
「そんな事もあるだろうさ」

…んな「親父」、俺は見た事無かったがな。
フクは最近ごく稀に、生みの父母の話をしてくれる様になった。両親からは好ましい暖かさで、愛されていたようだ。
高杉の子になったばかりの頃は何も話さないものの布団の中でよく泣いていたのを知っている。
「…お前、本当に神童だったんだな。あの頃のお前とあいつが幾つも違わんなんてな。苦労したか」
「そうでもないぞ」

「それにな」
耳元を撫でながら真面目な顔で高杉の瞳を覗き込んでくる。
「あの頃の分は、いつだって『今』のお前が埋めてくれるんだろう?」
そうだな…。
「良いか今の俺とは別口なんだぞ、どちらを忘れられても困るからな」
「はい、はい」
平和になってから、ほんの少し桂の人間味が分かり易くなった。

幾らでも可愛がってやるさ、フクと合わせて2人分。1人も2人も同じだからな、と口に出してはやらない。
ひっそり笑って唇を合わせた後に伸びをして、今度こそ起き上がる。
「漬物、もう食えるんじゃねぇのか」
どれ仕方ないから見てやろういつまでも甘えおって、仕方のない奴め…。

高杉を身支度に行かせ、桂は台所へ向かって愛用の割烹着を身に付けた。
自分の支度は済ませたからのんびりお前の寝顔を眺めていたのだ。だなんて、一生知らずに居るが良い。