へたなし奥さん
R18 桂の小屋を訪ねたがもぬけの殻。小屋だなんて呼んでいると知ったら、彼は怒ることだろう。 生暖かい春の夜である。 繁華街の外れにある墓地を通り過ぎ、ごちゃごちゃと古い商店が密集する小道を抜ける。崩れかけたような八百屋のオレンジ色の裸電球が、その小さな町の、終わりだった。 そこから先、二つ角を曲がると目当ての長屋が見えてくる。それなりに心持ちが変わるものだ。 けれど今夜の小屋には、光が無かった。 参ったな。 大して思っても居ないが、高杉は一応ため息を付いてみた。出直しか。 特別に持って出てきたものと言えば、右の袂に入れてきた替えの褌のみ。 これは無えよなあ。 お前はそうやって、いつも自分のことしか考えておらん。 高杉の周りの者に言わせると実際そんなことはないのだが、本人はそれなりに気にする部分があった。 今は不在の家主の言葉が、ぴしゃりと振ってくるようだ。 そっと戸に手を掛けてみたが、やはり開かない。 何もせずに帰るのも寂しく思い、一瞬迷ったが、結局合鍵を使った。 そのために持ってきたのだから、次の機会にと置いて帰るくらい許されるだろう。 小屋には彼の残り香があった。数時間で戻るのかもしれない。 待つ?俺が? 生憎そんな悠長なもんは御免こうむる。 窓から差し込む街灯のささやかな光を受け、小さなちゃぶ台が輝いていた。 座布団は、くたびれたのが二枚。しけてやがる。 窓に近い方は、チューリップのアップリケが縫い付けられていた。んなもん前からあっただろうか。 再び目線をずらした先で艶めくちゃぶ台の飴色に、喉の渇きを覚えた。 桂の小屋を出て、高杉はもと来た道を戻った。 ぽてぽて、と歩く。 他所の家から、湯気と石鹸の香りがした。 先程の八百屋はまだ開いていて、しかし全体的に傾いているように見えた。物理的にも、経営的にも。 店主の趣味みたいなもんだろうか。 例えば、ここの家族は土地持ち。今しがた通り過ぎてきた賃貸物件の、大家。 緩い風に揺れる裸電球につられ、何となく高杉も首を傾げて店内を覗き込んだ。 こんな時間に開けている物売りなんて、無駄に上乗せしているものだ。 細かく気にする質でも無いが、ふん、と小馬鹿にしてしまう。 ところがどうだ、並ぶ商品はなかなかに魅力的であった。 枇杷、白黒の葡萄、柑橘類、メロン。今の時分に良く採れる果物が良く分からなかったが、夜の商店街にしては驚くほどに、何でも揃っているように見えた。 「お兄さん、いい人にお土産、だあね」 掛けられた声に、商品を夢中で見つめていた自分に気付く。少し恥ずかしくなった。 六十代くらい。若々しく、洒落た爺さんだ。店の奥の暗がりから、人の良さそうな金縁眼鏡の男の姿が浮かび上がった。 仕立ての良いシャツを着ている。やはりこの店は土地持ちなのだ。 軽く会釈をして目を逸らした。 このまま船に帰るなら。この中で、また子がいちばん喜ぶものは何だろう。 「今日のおすすめね、いちご」 男が顎でしゃくった先には、化粧箱に行儀よく並んだ大粒の苺。別に何でも良い。 「それ、一箱」 買って出ることを考えると、途端にあのちゃぶ台に、似合う気がした。 洗ったらすぐ食べられる。 俺は喉が渇いているんだった。 人ってのは現金なものだ。 「苺は可愛い。俺は好きだ」 「そうかよ」 桂が丁寧に洗ってくれたのを、ちゃぶ台を囲んでつまんだ。 今日の桂は見るからに変態だ。 話には聞いていたが、こうして目の当たりにするのは初めてだった。 八百屋を出て再び長屋に向かうと、有り難いことに今度は中が明るかった。 高杉だって、少しは浮かれていたのだ。 警戒も忘れて迷わずカラカラと引き戸を開けると、そこには怪しく着飾った和装の女が二人。 思わず目頭を押さえてから再度目を上げると、何のことは無い、見知った者の仮装大会だった。 チューリップの席は、ペンギンのおっさんの席だったらしい。 気遣い無用と断ったが、身振り手振りでそこに座らせてくれた。良いから良いから。 よく合う女帯があったものだ。この人は、桂に優しすぎる。 あんたはどうするんだと申し訳なく思ったが、おもむろに立ち上がった彼は押し入れからもう一枚の座布団を引っ張り出してきて、それに座った。 「高杉にも、可愛いのを縫ってやろうと思っていたところだったんだが」 お尻をずらし、ペンギンのおっさんは自分が座る座布団を見せてくる。真ん中が擦り切れたままだ。 「俺のはな、人妻風の、薔薇!」 『かわいー!』 …貧乏くせえ。 思いつつ、二人が妙に楽しそうで、まあ良いかと思った。 ふん。鼻で笑って苺をもう一粒。 「アップリケとは奥が深いんだぞ。穴が塞げる程度に丸っこい形で、ほどほどに可愛くて、アイデンティティを主張できるものを選ぶんだ」 「…着替えてきたらどうだ」...