蜜もほろ苦

朝食後、桂が満面の笑みで冷蔵庫から取り出したのは水羊羹だった。 丁寧に菱形に切り取られ、つやつやしている。 甘味は苦手な高杉にもそれは魅力的に見えた。 「木戸先生すごい。…コーヒーゼリー?」 確かに子には早かろう。 「いつの間に。…銀時なら飛び上がって喜ぶな」 その通り。折角来てやったんだから、それは銀さんに寄越しなさいよ。 いや飛び上がんねえけど。 垣根の向こうに潜む怪しい影に気付く家人はまだ居ない。 彼の頭髪はいくつになっても変わらない銀髪だ。 噂には聞いていたがこの目で認めてしまうとやはりショックだった。 ふうん。へえ。ガキをこねくり回すの楽しそうだなオイ、随分しっかりした坊主じゃねえか可愛くねえ。 手土産、喜ぶだろうか? 母親宜しく笑顔を向けてくる桂の気持ちを無下にも出来まい。 何より、子を隣にして人の好意を断るのも如何なものか。 高杉はいただきますと手を合わせ、粋に添えられた黒文字で小さく切り分け口にした。 「ふうん。良い味だ」 本心だった。 「良かろう、俺の料理は一級品だ」 隣の高杉の様子を伺った後、フクも真面目顔で「いただきます」と手を付ける。 「美味しい。香ばしいって言うか。黒糖ですか?」 「よく知ってるな」 「ん…昔、食べましたから」 ああ。昔、とは恐らく生父母との思い出だ。 「そうか」 何と言葉を掛けるか迷ったが、頷くだけにしておいた。 子の表情は落ち着いている。胸を撫で下ろしたのに気付かなければ良い、と高杉は願う。 桂はそんな2人の姿が愛しかった。 この屋敷を訪れた回数はまだ片手で足りるが、既に勝手知ったる、だ。 いそいそと持参の茶道具を取り出すと親子は興味津々である。 昨夜と同じく囲炉裏で沸かした湯を使い、手前を披露した。 フクが物珍しそうに桂の手元を覗き込む。 「何です?シャカシャカ!」 何が面白いのだろうか。 早い早い、と笑い転げる子を「うるせえ」とむんずと掴みそうになって、高杉は手を引っ込めた。 初めて、か。 きっと多くの物を見るのは良い事だ。 沢山見せて、笑わせて、学ばせたいと、温かい気持ちになった。 「スピードが命だ。少しでも遅いと黒い茶が出来てしまう」 生真面目な顔を崩さないものだから、桂の冗談はたちが悪い。 「…親子揃って騙せると思うな」 「えっ」 茶碗から顔を離し見上げてくるフクの肩を抱き寄せた。 「澄ました顔して此奴が一等の悪童だったんだ。俺なんぞ、毎回被害者だったんだ」 「何を言う。失礼しちゃうわ、んもう!」 父様、ひがいしゃって何でしたっけ。 聞きたいのをフクは堪えた。2人が笑顔だったからだ。 こっそり大人たちの様子を眺め、ああまただ、と思う。 木戸先生はやさしい。 偉そうに見えるけど、父様は、何だろう、木戸先生に甘えている。 『僕はいつも、2人は仲良しだなあと思っています。』 そう作文に書きかけ、止めた。 もう少しだけ僕が子供の頃にこの家の子になってたら書いただろうな。 たまに、どんな大人になりたいか、なんて聞かれるけれど子供にとっては甚だ迷惑な話。以前、友と話した。 ほんとほんと。真面目に答えたって、大人から返される言葉は大抵つまらない。 友の手前そんな風に話を合わせたが、実を言うとその妄想は楽しい。 静かな屋敷を訪ねてくる桂、それを出迎える高杉。 まず大人ってのはあまり喋らない。その癖フクが知らないうちに2人だけの秘密、決まりごとが沢山あるようで時々いらいらする。 よく喋る大人だって沢山いるが、因みにそれは女の大人同士に多い気がするが、やはりフクにとって「大人」というのは桂と高杉だった。 この家の子になってひと月も経たない頃だ。 まだただの生徒だった時分、この屋敷を訪ねて来たところを見ていたので、彼の姿は覚えていた。 結った長い髪、姿勢の良い後ろ姿。少し怖い存在だった。 目が合って頭を下げると、腕を組んだまま無言でほんの少しだけ頭を下げ返してくる。 顔を上げても無言、無表情。 おおよそ子供に対する態度ではなかった。 おお、と隣に住む怖い爺さんだって一言は返してくるのに。 あのくそ爺。 あったあった、そのへん俺も騙されたやつな。 今や胡座で居座る男も、高杉らの会話にひとり頷いていた。 それにしても。...

December 18, 2016

厄にまみれて理想郷

お前の様に剥きたてを拵えるのが出来ないから、瑞々しいものを持って行こう。 屋敷に届いた木箱を開けると、行儀良く並んだ桃の柔らかな輪郭。 二つ失敬して古紙で包み、紙袋に大切にしまって友人の家を訪ねる。 「ヅラァ!美味いもん貰った。剥いてくれ!」 廊下の奥に呼びかけると、小さな影がたすき掛けを外しつつ廊下の奥からやって来る。 「手の掛かる」 「立派な桃だぜ」 その後頭部で揺れる尻尾に触りたい。 「なあ、首や手がチクチクするんだ」 「桃の毛だな。手を洗おう」 受け取った紙袋は予想したより重かった。さぞかし立派な桃だろう。 寄り道するも思った以上の暑さに弱ったか。小さな編笠を外すと乱れた前髪と湿った額。 「暑いな」 ふふ、笑ってみせても無理しているのは分かっているぞ。ちょうど掃除も終わったところだ。 「浅く水風呂でも溜めようか」 「それだとお前が大変だ」 何だって? 「小川に行かねえか。網に入れて桃も冷やそうぜ」 そうして連れ立って家を出た。向かったのはふしぎ沼へ向かう途中の浅いせせらぎ。 よく考えると、この水は沼と繋がっているのかも知れない。方向からするに沼から流れ出ている筈だが、それだと沼には更に上流があるに違いない。 小川に水を流し続けるには、沼にだってまた水が必要だ。しかし沼はやはり沼で、何処から水が注ぎ込まれているのやら。 やっぱりふしぎ沼だ。 足を浸すと良い気持ち。 桂家から持ち出した竹籠に桃を並べる。流されない様に一抱えもある石で網を挟み、流れに浸した。 水に揺らぐ桃に、小さな妹たちの昼寝姿を覗き見る時の心地がした。 「もう冷えた?」 「せっかちを直せと何度言えば分かるんだ」 その続きは分かっていた。 「良い子にしていればもうすぐだ」 とは言えそう早く冷えるものか、と桂は思っていた。ああほら、良い着物が。 「脱いでしまえ。また喧嘩かと叱られるぞ」 不満そうだったが、自分の足元を見下ろしてから納得したようで、高杉は水から上がった。 「お前だけだから、泳いでも良いよな」 止めてもどうせ飛び込む気だろう。 桂は腕組みをして笑って見せた。 可愛らしい褌一丁になると、まだ夏も初めだからその肌は白いまま。 何故かサワガニの身を思い出して、桂はむしゃぶりつきたくなった。 「お前、それが濡れたらどうやって帰るんだ」 ノーパン、いやノーフンか。 呆れていると「冷えてるぜ!」と嬉しそうな声。 いや俺は。 言いかけるも、不服そうな顔に気付き口を噤んだ。 「よし」 こちらがぼんやりしている内に、褌も解いてしまった姿に少々面食らう。 「少しだけ、良いだろ」 歯を見せて笑い一度こちらを振り返ると、素っ裸で小川の流れに逆らいざぶざぶ進んで行く。 「間抜けな格好で。虫に刺されるぞ」 如何にも心配する兄貴分の声を出してみたが、本当は困るのだ。 その体に自分の素肌を寄り添わせ、撫でてみたいような気持ちになるから。 しかし「痛って、小石」等と呟きながら大股で歩く姿を見ると追わずに居られない。 せせらぎの音を聞くよりも、草の香りをおぼえた時に何故か、如何にも水が気持ち良さそうに感じた。 「待てと言うに」 言いながら自分も袴と着物を脱ぐ。濡れるだろうかと躊躇したが、屋敷に帰ったら洗って干せば良いだけなのだ。 やはり俺は晋助ほど自由にはなれないな。 ひとり苦笑し、桂は褌だけ残して水に入った。 こうして子供達がよく遊ぶので、小川のへりには丁度良く段々が出来ている。 草が踏み倒されて絨毯みたいだ、と桂は思っていた。 石垣にぽつぽつ並ぶどくだみの白い花が爽やかだ。 水に入るまでが、草花の生気と小川から蒸発する水で暑く感じた。 船を抜けるのに手間取ってしまった。 若い奴らに任せた結果、今夜は慣れない舶来ものを食わされたのだ。 脂ぎっていて旨くも何とも無い、と思ったが万斉とまた子が嬉しそうで文句も言えず。 既の所で口の中のさまざまを飲み込んだ。 外に出たら出たで今度はキセルの葉を忘れたことに気付く。 我慢出来ずにタバコを吸ってしまって、ちょっとした厄日だ。 キセルはまだ許すがタバコは好かん。そう言われているのだ。 さっさと風呂で匂いを落とそうか。いや出迎えも捨てがたい。 悩むのも馬鹿らしくなり、そうして高杉は縁側で静かに往来の声を聞いていた。 待ちぼうけに文句が幾つか溜まる頃。 月明かりから身を隠すようにして、裏庭の茂みをがさごそ言わせながら待ち人がやっと現れた。...

December 14, 2016

fixer

作品提出の祝杯を上げた後、ギンと会えていない。 自分から言い出しておいて連絡も寄越さない、失礼な奴と思われているだろうか。 それとも彼のような大人には酒の口約束なんて星の数ほど。きっとそうだ。実際そうなら楽な筈だが胸がちくりと痛む。 実は、まず良い知らせが届いたのだ。 これはつまり銀髪の男性モデルの功績に他ならない。 お陰で日常が一気に嵐の中に突入し、自分のことで精一杯になった。 結果通知は学校にも届き、会報誌に載せるなどで真面目くさった顔で写真に写ったり一丁前に何事か語ったりと方々を行き来して、飛ぶように日々は過ぎた。 そうしてお祭り騒ぎの合間に思い出すのは、やはりモデルその人だった。 半年後に個展場所と制作費を与えられ、あれこれと各所とやり取りをするうちに、プロラボでのアルバイトの座も得た。 憧れだった店だ。足を踏み入れるのも取っておきの場所だったのに、まさか働けるとは。 しかし腐ってもそれ関係の学生である。話に聞いていた最新機種を触らせて貰えるのは嬉しい。 仕事を覚えるのは楽しかった。接客やなんかも、意外と。 そこでのアルバイトを始めて7日目の勤務日、カウンターに憧れの女性写真家がやって来た。 顔はプロフィール画像で何度か見たことがある。もう50代の筈だが、間近で見ると常に真摯な空気を纏っていて、若々しかった。 注文票に丁寧に書かれるフルネームを間近で見つめている事実。うっとりしてしまう。 「高杉くん」 自分が呼ばれたと直ぐには気付けなかった。白手袋を嵌めたままの左手をそっと、カウンターの下で握りしめる。 「今年の新人賞のグランプリ、貴方でしょう。拝見しました。素敵でしたよ。何故モデルさんについて語らなかったの?」 そうか貴女は。嬉しさに息が止まりそうだったが、両手をきつく握り直して言葉を見付けた。 「友人なんです。彼は、そう、人目に触れるのを恥ずかしがったので、言えなかったんです。ずっと、彼を作品にしたかったんです」 ふっ、と笑顔を向けられた。 「そう?あれは、ほんものの恋人ではないの」 咄嗟には答えられない。 そんな自分を気にするでもなく、コール天ジャケットの胸ポケットから名刺を取り出す彼女。その口から静かな言葉が重ねられる。 「素敵ね。貴方が撮りたいわ。気が向いたら教えて下さい」 彼女の背を見送った後、手渡された小さな長方形を裏紙に丁寧にくるんだ。 透かしの入った白い和紙の、美しい名刺だった。 10月8日 ギンに会いたい。 自分の予定を考えながら、やはりもう暫くは難しいであろう希望を思い描いた。 頭の中のカレンダーを一旦畳み、歩く。 目的地に向け閑静な住宅街を歩く。なかなか夏が終わらない。 「お世話になります。高杉です」 やって来たのはあの女性写真家のアトリエ兼自宅だ。 心地好い湿気を滲ませた、不思議な男性ヌードを精力的に発表する作家である。まさか自分がこんな役を仰せつかるとはな。 各紙のインタビューで知っていたが、想像以上に淡々とした時間だった。 見られているのに彼女の感情が分からない。撮りたい、残したい。それだけ。 「こちらを見つめて」「寝返りを打って、そのまま」「目を閉じて」 こちらは静かな命令のままに時折身体を動かすのみだ。次第に現世のことなど忘れて真っ白な存在になっていく感覚に陥る。 しかし時間が経つとまた別のことを思った。 見られているのはこちらだが、逆に彼女の好きなもの、性質がよく分かる気がした。 俺の何がお気に召したのだろう。かたち、あるとすればだが、その中の何か。 彼女は純粋にお気に入りを捉えようとしている。自分がいちばん満足できるかたちで。 そこには、大好きな玩具に夢中になる子供の純粋さが色濃く存在していた。 高慢にも考察していた所で、眩しい光。 まだ室内光でも続けられるだろうにタングステン? 向けられる光の強さに、一度開いた瞼をまた閉じた。 瞼の裏に、白い男の身体が浮かんでは消える。これじゃまるで。 ハマったのは俺じゃないか。 「はい、終わり」 顔を上げると、優しい笑顔を向けられていた。機材を置き、彼女はベッドに歩み寄ってくる。 隅に押し遣られていたタオルケットを持ち上げ、ふわりと背を覆うように掛けてくれた。 思い出すのは幼い日の風呂上がり。鼻の奥がきゅうと収縮する。 瞬間、この世界には怖いものなんて何も無い心地がした。 肩に手が乗せられ、目を閉じる。 触れるかどうかの位置に熱を感じ、額に彼女のそれが重ねられるのが分かった。 「ありがとう。見てくれて」 帰りがてら「見る」ということについて考えた。 見せてくれて、ではなく「見てくれて」、確かにそう言っていた。 意味を想像するも、実際のところ正解なんて必要ない。全く困らない。 それはそうだが、不思議な高揚を感じていた。 確かにギンはレンズを見ていた。俺のレンズ、いや違う。 作品の材料として自分を見つめる目、戸惑いを持って見つめる目。 同居するどちらの俺も許した上で穏やかに見てくれていたのだ。 見てくれてありがとう。か。 俺がギンの姿に戸惑ったのは、作品に使う以外の魅力を感じたからだ。 彼は、こちらの欲望に気付いたろうか。 びゅう、と強い風がひと吹き。今のはほんの少し秋らしかったな。 そうか例えば。 自分が見てあげたのは、かたちと空気を捉えるという、彼女の崇高なひとり遊び。...

December 4, 2016

僕の、怖い方の

昨夜遅くに帰ってきた銀さんが泥だらけだったのはびっくりした。 血を出すような怪我はしていなかったからもう一安心してしまって、この位なら慣れっこの僕は適当に迎え入れた訳だ。 「もう。びっくりするじゃないですか、大丈夫ですか」 僕も神楽ちゃんも待っていたのだ。3人で毎週欠かさず観ている深夜のバラエティ番組、好き勝手な銀さんの適当な文句もとい笑えるコメント。 ささやかな楽しみだった。 始まるまであと1時間。銀さんの帰りが間に合って良かった。 「お風呂まだ温かいと思いますよ」 「ナイスぱっつぁん」 とんとん、足踏みしてブーツの泥を落としてから敷居をまたぐ気配。 「それにしても、何があったんですか」 言いながら振り向いた僕は、恐ろしい光景を目にしてしまった。 「たっ、たたた高っ」 「高杉さん、で良いんじゃない」 振り返った銀さんに促され、その人も、ああ、入って来てしまった。 「お邪魔します」 はあ。とさえ言える訳がなく、僕は口をぱくぱくさせるだけだ。 なんで。 「なんで?」 僕の言葉を代弁してくれたのは神楽ちゃんだった。 殺気は出さずとも唇を尖らせている。そうだ、これは神楽ちゃんじゃないと効果が無い。 「本当はいつも、いや大昔から、お前らの社長さんには世話になってるんだ。今夜は妙な真似はしねえさ」 静かな言葉を放つその人の笑顔は意外な程に優しかった。笑顔、と認めるにはとても控えめだったけれど。 それに絆された僕はもう何だかどうでも良いかと、迎え入れてしまった。 高杉さんも草履の泥を落として玄関に入って来る。とすとす、今度は少し軽い音。 「悪いが、俺も、借りる」 短く呟くと、その人は銀さんの後を追ってお風呂に向かった。 かたん、と引き戸が音を立て、2人が脱衣所に吸い込まれてしまうと一気に力が抜けた。 「新八ィ、やっぱり、もうこたつ欲しいネ」 背後に感じるささやかな重みと体温。実際この存在に何度救われたことか。 「そうだね…。高杉さんに聞いてみよっか?」 「頼んでみても良い?」 頼めるもんならだけど。でもちょっと…流石に今夜は2人で見ちゃおっか。 神楽ちゃんの背中を押して応接室に移動。内心、僕の胸はばくばくだった。 そろそろ、寒い寒いと言いながら3人で押し合いへし合い入るあれが恋しい季節だ。 「そろそろじゃね?」 「何がです」 「あれだよあれ、万事屋の結束を高める為に、寒い時期に必要不可欠な高機能リラクゼーションマシーン的な」 はっとして可愛い笑顔で飛びついてくる神楽ちゃん。 「新八ィ!」 僕う? 「まだ早いです」 僕だって面倒くさいもの。 そんなやり取りを数回繰り返し、妥協案として先週から古い毛布を引っ張り出してそれぞれくるまったりひざ掛けにしたりして誤魔化していたが流石にねえ。 テレビを点け、2人並んでソファに座る。 「新八近いアル」 気にしなくて良いの。僕は大切なウチの箱入り娘が心配なだけです。 間も無く見慣れた予告カットが入る。今週のお題も良いセンスだ。 本当はめちゃくちゃ怖い。万事屋も明日から過激派な、と銀さんが言いだしたらどうしよう。死活問題だ。 実際僕なんかよりずっと強いんだから問題無い筈だけど、それでも神楽ちゃんが連れて行かれるかもと考えると、凄く凄く嫌な気分だ。 「新八ィ、大丈夫?」 気付くと僕は、小さな肩を抱き寄せて震えていた。 「怖い事なんて、しねえよ」 「っギャアアアア!」 ぜえ、はあ。 僕の肺がまともに酸素を取り込めるまで暫く掛かった。 恐る恐る後ろに首を回すと、困った顔の高杉、さん、と、一歩下がった位置で両手を口に当ててこれ以上ない程に腹立たしい顔で笑いを堪えている銀さん。 銀さんはいつもの甚平で、高杉さんは見慣れた白地に渦巻き柄の着流しを着ていた。銀さんが貸してあげたのか。 って普通に仲良いじゃないか。こいつら、この、くそオヤジども! したくないけど理解してあげようと思った。僕が大人にならなきゃダメなんだ。 神楽ちゃんは僕が守らなきゃ。 「こたつ、出してくれるアルか?」 一瞬耳を疑った。夜兎の血は伊達じゃない。きっと僕には一生真似できない大技だ。 神楽ちゃんの言葉に、高杉さんはちょっとだけおかしそうな顔をした。 「…そうだ、銀時に言われて手伝いに来たんだよ」 その返事も大概おかしい。 「そうなの?」 あっ、危ないのに。 するりと僕の腕から抜け出す神楽ちゃん。もう泣きたい。 「流石にちと早いとは思うがな」 「甘やかさなくて良いよ、超面倒じゃん」...

November 23, 2016

いつかきっとミード

館内は噂に違わず曲がりくねり、何処に続くか分からない。 所々に灯る電気は暗めのオレンジ色。まるで物語の世界だ。 しかし雰囲気作りに忠実か、単に予算不足なのか。一向に判別不能な宿とも言えた。 そう若くなくても構わない、むしろ大女将みたいな、笑顔の優しい仲居さん。銀時はイメージを大いに膨らませ期待していたが、部屋に通してくれたのは話し好きのおじさんだった。 まあこれはこれで。 「坊っちゃん達は学生さんかい。仲良しなんだねえ」 一瞬どきりとしたが、言葉に含みは無いようだ。星の数ほどに様々な形の幸せを出迎えては見送ってきたのだろう、落ち着いた思い遣りに感じた。 「あんた達ね、運が良いよ。明日になると外国のお客さんが沢山来て随分と賑やかになっちゃうからね。 ゆっくり、2人で格好つけて文豪の先生ごっこでもすると良いやね。 ほら窓開けてご覧なさい、良い部屋でしょう」 言われて窓に駆け寄る。 「魔法瓶にお湯が入ってますよ。ではごゆっくり」 思わず息を呑む銀時と高杉に自慢げな笑顔を向けると、おじさんは部屋を出て行った。 中庭に面した部屋は2人で泊まるには広すぎて勿体無いくらいだった。 山が近いと夕暮れが早い。もう空はうす紫をしていた。 よく手入れされた木々をぼんやり照らす、客室からのまばらな漏れ灯。 敷地内は起伏が激しい土地で、一帯には凸凹と怪しい影が折り重なっている。迷宮に迷い込んだみたいで少年心を大いに擽られた。 灯りを写す池の水がとろりと蜂蜜みたいに煌めき、うっとりするほど良いものに見えた。 「銀時」 名を呼ばれ、長いこと息を呑んで景色に見とれていたのに気付く。 「ラブラブバスターイム?」 うきうきと銀時が振り向くと、高杉はもう浴衣に着替え、半纏を羽織るところだった。 風呂に辿り着くまでにどうしても好奇心が勝ってしまう。寄り道するとまさに不思議のダンジョンだ。 古いビロード張りの赤絨毯を辿る。好奇心のままに階段を登り続けたら、終いには恐らくだが一等室に着いてしまった。 旧家の立派な日本家屋のような引き戸。瓦の出っ張り屋根まで付いて、違う建物に着いてしまったかと思うが、そこはまだ屋内だった。 表札まであるのに、と顔を見合わせながら文字を読むと「松の間」。 さてはお化…、と中から聞こえる客の笑い声の正体を勘繰ってしまう銀時だった。 「晋助、マイシャンとか持って来ないの?」 「…そこまで傍若無人じゃねえよ。あと俺ピースだから」 「あん?…マイセンじゃなくて、シャンプーのこと。つかそうだっけ。じゃなくて、お泊りセット的な」 「ぶ、女子力高い」 「おおおお前こそ!なんで?何で?何で適当にやってるのにそんな綺麗なの?」 「適当って訳じゃねえよ、健康なんだよ。芯が真っ直ぐだから」 「失礼しちゃう。…お、超立派」 充てがわれた部屋から風呂に辿り着くまで、15分も掛かっていた。 「広っ」 「おっぴろげだ」 脱衣所から藍染めの暖簾をくぐるといきなりの露天風呂だった。やはりと言うか、薄暗い。 敷地内には浴場が3つもあるらしく、その全てを制覇するのは今回の旅のミッションに数えられていた。 探検する内に普通の汗と冷や汗とどちらもかいた肌は少々驚いた。 終わりとは言えまだ半袖の季節だと言うのに夜風が冷たい。 寒い寒いと騒ぎながら超特急で身体を洗って湯船に入ると今度は湯が物凄く熱かった。 「熱う!なにこれ死ぬほど煮えたぎってない?」 「大げさ…っ、う」 天国と喜び飛び込んだ銀時だったので受けたダメージも絶大だ。 彼に比べると冷静に、それでも常よりは慌てた様子で湯に浸かった高杉も然り。 「っつぅぅ」 揃って思わず無言になる。 我慢比べが始まるかとも思われたが、本当にそれどころではなかった。 「ここここれは非常にマズイ」 「マズイな。10秒だけ数えよう」 そんな。 前屈みで固まる銀時をよそに、静かに肩まで浸かってしまう高杉。 いよいよ逃げられず、銀時も意を決して沈んだ。 「ぷ、ぷしゅー、ぐお、ふしゅうう」 「うるさい」 もはやカウントダウンもクソも無い。口を動かしていないと何処かに召されてしまいそうだった。 あれ、でも慣れてきた?気持ち良いかも。 肩の力を抜いたところでざあっと風が吹き、竹が大きく揺れる。 やはり洗い場の控え目な光だけでは心許ない。 暗くてよく分からないが、湯船が面する岩肌は高くそびえ立っているようだ。 見上げた先に何かがいたらどうしよう。例えば光る目。火の玉。余計な事を考えてしまい、銀時は湯に沈み直した。 「よし」 高杉の声に目を開けると、身体が良い具合に温まっていた。 両手で湯を掬い、顔と耳に掛けると気持ち良い。しょっぱい湯だ。 「お先に」 湯船からさっさと脱出する高杉は、その途中で銀時に向けて湯を跳ね上げるのを忘れなかった。 不意に掛けられるとやはり熱い。 「っ熱ゥゥゥ!バカヤロ!あっ、待って、俺もう無理かも、あっ、無理!」 「浴衣って良いもんだね。この分け目?が好き」...

November 22, 2016